◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(一)

スサノヲ(スサノオ)

2006年07月01日 00:00




◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来(一)

◆◇◆七月七日、七夕(七夕の節句)の由来と行事

 七夕(七夕の節句)は、「笹のはさらさら・・・」と歌われ、各地でさまざまな祭りや行事が行われる夏の風物詩で、桃の節句や端午の節句と並ぶ五節句の一つである。今日では、七月七日の夜の星祭りとして定着した。

 七夕(たなばた)といえば、竹笹の枝に色とりどりに飾られる、願いをこめた短冊が思い浮ぶ。また、牽牛と織女が年に一度逢瀬をはたす物語は誰もが知っている。

 七月七日(旧暦も含む)には、日本の各地でさまざまな祭りや行事が行われるが(新暦の「平塚の七夕」、月遅れの「仙台七夕」など)、時期は、新暦・旧暦・月遅れと地方によって異なっているようだ。

 天の川をはさんできらめく牽牛星・織女星の物語は、いまから二千年前にはすでに中国で成立していた伝説だといわれている。機織りに励んだ天上の織女にちなんで、星に技芸の上達を祈る「乞巧奠(きこうでん)」(女性達がこの日、七本の針に糸を通して捧げものし、織姫に針仕事の上達を祈る)という宮中行事が生まれ、日本へ伝わったとされている。

 こうして七月七日の行事である七夕(乞巧奠)は、日本では奈良時代に宮中の行事として執り行われるようになった。民間に広まったのは室町時代以降といわれる。

 もっとも、乞巧奠の伝来以前の日本にも、七月七日に古い民間信仰と結びついた行事があったといわれている。折口信夫によると、日本には棚機女(たなばたつめ)という巫女が、水辺で神の降臨を待つという農村の「禊ぎ(みそぎ)」の行事があったそうでだ。

 その両者が習合・混淆したのが日本の七夕で、「七夕」と「タナバタ」と読むのも「棚機女(たなばたつめ)」からきているという。両者が習合・混淆・合体したのも、日本の棚機女の伝説(天から降り立つ神のために美しい衣を織る織女)と、中国の織女の伝説(機織りに励んだ天上の織女)に共通し重なるものがあったからだろう。

 江戸時代になると、七夕の行事は民間にも広がる。この頃、「習字の上達を祈願して」笹に願いを書いた短冊をつけて飾る風習が生まれたようだ。また、乞巧奠の流れを汲む七夕は、江戸時代に定められた五つの節供(1/7七草(人日)の節句、3/3桃(上巳)の節供、5/5端午の節供、7/7七夕の節句、9/9重陽の節供)のうちの一つとして定着し、武家・町人の社会に広がった。

 一方、農村では、七夕は棚機津女の流れを引いて、水にかかわる農耕儀礼の性格を持ち、更にそれに盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事としての要素が加わる。日本古来の伝承(棚機女=たなばたつめの伝説)や風習(穢れを祓う行事)と、中国の行事(乞巧奠)がうまく混ぜ合わさったからこそ、七夕はいまでも日本の各地にさまざまな形で、大切に伝えられているのかもしれない。


スサノヲ(スサノオ)

関連記事