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2006年08月05日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(五)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(五)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、「迎え火」「迎え盆」
 お盆には、先祖・祖霊(※注1)や亡くなった人たちの精霊(※注2)が燈明を頼りに帰ってくるといわれ、十三日の夕刻に、仏壇や精霊棚(しょうりょうだな)の前に盆提灯や盆灯籠を燈し、庭先や門口で迎え火として麻幹(おがら=芋殻)を焚く。それが「迎え火」(※注3)である。

 盆提灯をお墓で燈し、そこでつけた明かりを持って精霊を自宅まで導くという風習もあり、これを「迎え盆」ともいう。それぞれの「家」毎に鐘やご詠歌や迎え火を設け、先祖の霊魂(※注4)を家の中まで招き入れるのだ。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)祖霊という概念は柳田國男が提示した。柳田によると、日本人の民俗的霊魂観のうち、家を興した開発祖先の霊や、それに続く代々の子孫を養育して死を迎え、死後直系の子孫によって四十九日とか一回忌・三回忌というように年忌法要を営んでもらいつつ徐々に浄化をはたす。

 そして誰それの霊としての個性を消失させ、その家の集合的霊格ともいうべき神(もしくは先祖一般、ご先祖様)に融合昇華したと考えられる霊が、祖霊なのだ。

 したがって、祖霊観念は日本人の家意識と密着しており、死後に祖霊として祀り続けてほしいが故に(すなわち無縁霊として打ち棄てられたくないために)、人々は直系の子孫の繁栄と家の永続を願うのである。ただ、近年の家意識の変容は祖霊観にも少なからぬ影響を与えている。

(※注2)祖霊を迎えて行われる代表的行事がお盆とお正月である。家々のお盆行事の中心は祖霊との交歓にある。長野県の諏訪湖畔では「爺さま婆さま、この明りでお出でお出で」と唱えながら墓地で火を焚き、そこから手を後ろに回して爺・婆を背負う格好をして家に戻るというが、この爺・婆には特定の人がイメージされているのではなく、祖先一般すなわち祖霊なのだ。

 このように、あたかも眼前に祖霊の姿が見えるかのごとく、家に案内して盆棚に迎え入れる例は全国に多く、供物をし、その前で家族・一族が数日間賑やかに過ごすのは盆の一般的光景である。

 正月に迎える歳神(年神、稲魂であり祖霊でもある)の性格は盆に迎える霊より複雑であるとはいえ、祖霊としての性格も十分に認められる。このような盆と正月の行事は、一年を両分したそれぞれ最初の月の祖先の魂祭りだと考えられている。

 卯月八日(うづきようか)の神迎えや春秋の彼岸行事も祖霊をめぐる行事であり、霜月二十三夜の大師講や各地の春秋の田の神・山の神去来伝承にも、祖霊の姿を垣間見ることができる。

(※注3)祖霊は家の神なので、氏神信仰とも深い関係にある。氏神には古来以来の変遷があり複雑多岐にわたるので、お盆のような祖霊のみで氏神信仰を理解することはできない。少なくとも、屋敷氏神や草分け宅の祖霊を核に発展したことの明らかな村氏神は、祖霊とかなり深い関係にある。

 平安時代の官人社会では、二月もしくは四月と十一月の春秋二回氏神祭祀をしていたことが明らかになっており、これは神社の祭日にも反映されているとされている。この際日は屋敷氏神や村氏神の祭日とも概ね一致しているので、両者の本質的同一性が確認されれば、祖霊は日本の祭りの考察に欠かせない存在となりそうだ。

(※注4)迎え火とは、お盆に先祖の霊を迎えるために焚く火のことである。お盆の十三日夕方が多いようだが、お盆期間中毎日焚く所もある。墓・辻・門口などのどこかで焚いたり、墓で焚いた火を小さな松明や提灯に点じて持ち帰り再び門口で焚く例など、方法は各地で様々である。

 燃料には麦藁・稲藁・麻幹(おがら)・松の小片・白樺の皮などが用いられている。焚くときは「おじいさんもおばあさんもこの火でござっしゃい」などと祖先迎えの言葉を唱え、そのあと霊を背負う格好をして家に入り盆棚に落ち着かせる仕草をする所や、近くの山頂でムラ共同で杉の葉などを焚き、その煙に乗って祖先が訪れると考えている所もある。


スサノヲ(スサノオ)  

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 08:53Comments(0)スサノヲ(スサノオ)の日本学

2006年08月04日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(四)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(四)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、先祖霊(祖霊)祭り・魂祭り

 お盆の行事の中心は、家々に先祖霊を迎えて供養することにある。それに伴って訪れる様々な無縁霊・餓鬼の供養も同時に営まれる。日本の古い信仰では、御魂には生者のものと死者のものがあるとされていた。生者の御魂を拝するほうは、宗家の主人や両親に魚などの食物を贈って祝う「生見玉(いきみたま)」の習俗としてお盆行事の一部をなし、これは「生き盆」と称されている。

 「生見玉(いきみたま)」の意識は近年衰えつつあるとはいえ、ますます盛んになる中元の贈答が生見玉への贈り物の延長だとも考えられる。また一方、死者の御魂には仏教が強く関与し、その供養はお盆行事の中核をなしている(お盆には寺僧の関与が強く、一般には仏教行事と多くの人に理解されているが…)。

 柳田國男の分析によると、お盆に祀る死者の御魂には精霊(祖霊)、新精霊(あらじょうろう)(注1)、外精霊(ほかじょうろう)(注2)の三種があるとされている(注3)。

 祖霊とは、その家のかつての戸主夫婦の霊で、死後年を経て浄化され穏やかになり、お盆の期間子孫に迎え祀られて家の豊産安寧を保証してくれると信じられている(先祖霊・祖霊は清らかな神と認識されている例が多い上、健在な両親に対して生臭いもの(魚)を供するというような反仏教的性格もある)。

 現在、各地のお盆行事は複雑で、祖先の「魂祭り」が中心であるとはいえ、それに健在な親を祝う「生見玉(いきみたま)」の習俗、稲の予祝や畑作物の収穫祭的要素、中元(七月十五日)を祝う考えなどが加わっていった。

 お盆に農耕儀礼的性格のあることは、盆棚の飾りや供物に様々な畑作物や稲の青苗を用いていることからもいえる。また、中国の麦作地帯の収穫祭に源があるという中元の祝いと無関係ではないようだ。

 日本のこの時期は、稲作、畑作ともに作業が一段落し、過酷な夏の暑さも峠を越えつつある時で、次に秋を控え、季節の変わり目を意識した何らかの神祭りがあったと思われる。それが民間への「盂蘭盆会」や「中元」の浸透定着を容易にすると共に、お盆行事の構成要素にもなった。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(注1)新精霊(あらじょうろう)とは、一年ないし三年以内に亡くなったその成員であった者の霊で、死後まだ間がなくて十分に浄化されておらず、荒々しく祟りやすいと考えられている。そのため新精霊を祀る家のお盆は期間がやや長く、祭り方全般が丁重で、それだけ寺僧の関与も強いそうである。このお盆は吉事盆(しばらく不幸の内家のお盆行事)に対して新盆(あらぼん)・初盆(はつぼん)などと呼ばれる。

(注2)外精霊(ほかじょうろう)とは、祖先霊以外の餓鬼・無縁・法界などと呼ばれる、祀る子孫のいない諸霊のことである。招かないのに祖霊や新精霊に随伴してくるとされ、祀り方は全般において差別されている。ただ、外精霊はお盆行事の主役とはいえないが、日本人の霊魂観を知る上では無視できない存在である。

(注3)死をめぐる日本人の民俗的霊魂観によると、肉体は腐敗消滅しても霊魂だけは分離してどこかに存在し続けるとしている。また肉体から分離した当座の霊魂は荒々しいとされている。このような霊魂すなわち死霊は、放置すれば山野に盤鋸して激しく祟りをなすと考えられており、丁寧に鎮め祀れば次第に祟りを和らげ、逆に人々を守護してくれるようにもなると考えられていた。こうした考えは、平安時代、「御霊信仰」を生み出していくのである。


スサノヲ(スサノオ)  

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00Comments(0)スサノヲ(スサノオ)の日本学

2006年08月03日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(三)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(三)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、旧暦による民俗習慣

 東京あたりでは、七月十五日(新暦)を中心に、十三日を「迎え盆」、十六日を「送り盆」といい、十三日から十六日までの四日間を「お盆」の期間(※注1)としているそうだが、関西をはじめ全国各地とも、こと「お盆」に関しては、圧倒的に旧暦の七月十五日もしくは、その便宜上の変形である新暦の八月十五日を中心に「月遅れのお盆」が行われている。

 この現象は、「正月」をはじめ数々の伝統的な節句や民俗習慣が、なんでもかんでも「文明開化」の名の下に欧米化を進め、何の関連もない新暦(グレゴリオ暦)で実施されるようになった明治期以後の日本にあって、奇跡的にも旧暦の側が優勢な民俗習慣として残っている(※注2)。

 お盆は、元来は日本固有の先祖祀りがモトになっている。ところが、江戸時代に入り、幕府が檀家制度により、庶民の先祖供養を仏式によるよう強制したため、お盆も仏教のみの行事と誤解されて、現在に至っているのである。

 我が国では、古くから神祭りと共に、先祖の御霊を丁重にお祀りする祖霊祭祀が行われ、人々は神と祖霊の加護により平安な生活を過ごせると考えていた。この神とは唯一絶対の神でなく、自らと繋がりのある先祖が徐々に昇華して神となった存在であると信じていたのである。

 年中行事の中で、お盆と正月が二大行事として重視されるのも、お盆が先祖を、お正月が歳神(稲魂であり祖霊でもある)をお祀りする行事として、いづれも我々と繋がりのある祖霊や神々をお招きするという意味を持つからなのだ。

 ちなみに、仏教行事のお盆は、『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』という経典によるものであり、仏弟子の目連が餓鬼道に落ちて苦しんでいる母親を救うために、釈迦の教えで、七月十五日に安居(あんご・修行)を終えた僧侶を百味の飲食(おんじき)を供えて供養したところ、その功徳により母親を含め、七世の父母(七代前の先祖)まで餓鬼道から救済することができたという孝行説話に基づくものである。

 仏教が我が国に伝来すると、こうした盂蘭盆会(うらぼんえ)の行事が諸寺院において行われるようになった。当初は僧侶の供養が中心だった「盂蘭盆会」は、その後、我が国の祖霊祭祀と結びついて、先祖を祀る「お盆」となるのだ。 現在、地域や各家庭により新・旧暦を基準とし、七月十五日前後にお盆が行われるが、いづれにしても、日本古来からの大切な「先祖まつり」の時であることに変わりはないのである。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)お盆は先祖が帰ってくる期間あり、日本の重要な年中行事の一つである。また、お彼岸と並んで大きな仏教行事の一つで、先祖の霊を供養する行事だ。お盆は盂蘭盆ともいうが、これは、梵語(古代インド語)の「ウランバナ」(逆さ吊りの意)が語源になっている。

 お盆は、この盂蘭盆が略されたものといわれている。お盆には先祖の霊が家に帰ってくると考えられており、各家庭では迎え火を焚いて先祖の霊を家に迎え、ナスやキュウリで作った牛馬などのお供え物を用意して先祖の霊を供養する。先祖と一緒に過ごした後は、送り火を焚いて先祖の霊を見送る。

 お盆の由来はというと、釈迦の弟子の目連が、餓鬼道におち、逆さに吊るされ苦しんでいる母親を助けてほしいと釈迦に教えをこい、七月十五日に供養をしたのが、盆行事の始まりといわれている。現在では、新暦の七月十三日に先祖の霊を迎え、十六日の夕方に送り出すのが一般的だが、旧暦の七月十五日前後や月遅れの八月十五日前後に行う地域も多くなっている。八月十三日から十六日頃には、お盆休みで帰省ラッシュになるのも、都会の人々が、お墓参りをするために故郷に帰る習慣が定着化したためである。

(※注2)元来、お盆の行事は旧暦の七月十五日に行われていたのだが、明治時代に新暦になってからは時期が三つに分かれてしまった。

 一つは新暦になってもそのまま七月十五日におこなう七月盆、つぎに七月ではあまりに早すぎるというので月遅れでおこなう八月盆、もう一つは旧暦の七月十五日におこなう旧暦のお盆である。関西地方ではほとんどが八月盆のようである。どうも、本来は初秋の行事であったようだ。


スサノヲ(スサノオ)  

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 20:59Comments(0)スサノヲ(スサノオ)の日本学

2006年08月02日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(二)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(二)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、盂蘭盆経と仏教説話

 「盂蘭盆会(うらぼんえ)」(※注1)とは、陰暦七月十五日(今の暦では、八月十五日と定められている)を中心に行われる先祖供養の法要である。「盂蘭」とは梵語(ぼんご=中期インド語の総称)で、意訳すると「倒懸」(とうけん)といい「さかさづりの苦しみ」という意味があり、大きな苦痛をあらわしている。

 『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』(※注2)には、釈尊(しゃくそん=お釈迦様)の十大弟子の一人である目連(もくれん)が、神通力で亡き母の姿を見たところ、母親は餓鬼道(がきどう=むさぼりの強い者の死後の世界)に落ちて苦しんでいたそうだ。

 目連は、母の苦しみを「何とかして救いたい」と、釈尊に尋ねると、「七月十五日に、過去七世の亡き先祖や父母たちのために、ご馳走を作り、僧侶たちに与え、その飲食をもって、供養するように」と教えられる。

 釈尊の教えに従って祭壇(さいだん)を設けて三宝(さんぽう=仏〈悟りを開いた人〉。法〈仏の説いた教え〉。僧〈仏の教えに従い成仏を目指す出家者〉)に供養すると、目連の母親は餓鬼道の苦を逃れ、無事成仏することができたそうだ。このようにして母を救ったということが説かれている。これが「盂蘭盆会」の起源・始まりであるとされているのだ。

 この仏典『盂蘭盆経』は、後代に中国で創作されたものとされている。これが、日本に伝えられたもので、日本では西暦六百年頃から公に行われるようになったようである。のちに朝廷の恒例仏事となり、また諸大寺でも行われるようになり、しだいに民間の各寺院へと普及していき、今日もなお各地の寺院などで盛んに営まれている。

 「盂蘭盆会」は、もともとは中元(ちゅうげん=陰暦七月十五日)の節目に先祖を供養するということと習合されて現在の様式になったようだが、旧暦で行うところや新暦の七月および八月に行うところがあり、またその期間も必ずしも一定していないが、現在では新暦の八月十三日から十五、十六日までとするのが一般的となっている。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)うらぼん 【盂蘭盆】 大辞林第二版より 〔仏〕〔梵 ullambana〕もと中国で、『盂蘭盆経』に基づき、苦しんでいる亡者を救うための仏事で七月十五日に行われた。日本に伝わって初秋の魂(たま)祭りと習合し、祖先霊を供養する仏事となった。迎え火・送り火をたき、精霊棚(しようりようだな)に食物を供え、僧に棚経(たなぎよう)を読んでもらうなど、地域によって 各種の風習がある。現在、一般には八月一三日から一五日に行われるが、七月に行う地域も多い。お盆。盂蘭盆会(え)。盂蘭盆供(く)。精霊会。精霊祭。歓喜会。魂 (たま)祭り。

(※注2)『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』という経典には、釈迦の十大弟子の一人に、目連(もくれん)という人が居た。目連は神通力第一と言われ、摩訶不思議な力をもった人のようである。この目連が、ある日、霊能力を使って、亡くなった母親を死後の世界に探しに行き。母親が、餓鬼道に落ちて地獄の苦しみを味わっている事に驚いた目連が、お釈迦様にどうすればよいかと相談をした。

 釈迦は、当時のインドで修行の終わる日(七月十五日)に、僧侶達に食べ物を施すようにいう。目連が言われたとおりに修行を終えた僧侶達に、食べ物を施し、その功徳によって母親が救われたというのである。この『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』には、インドのサンスクリット語の原典がなく、お釈迦様がそんなことを言ったのか?、疑問もあるのだが。

 この「盂蘭盆経」の教えは、孝養を重んじる中国で尊ばれ、日本でも、仏教伝来後まもなく宮中行事として行われるようになったといわれている。そして、江戸時代になると檀家制度の確立とともに、祖先崇拝行事と深く結びつき、他の亡者供養もあわせて行うようになった。


スサノヲ(スサノオ)  

Posted by スサノヲ(スサノオ) at 00:00Comments(0)

2006年08月01日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(一)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(一)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、「ullambana(ウラバンナ)」

 なぜか、お盆は私達日本人には、何か特別こころに響くものがある。夏の行事というと真っ先に頭に浮かぶのがこの「お盆」という言葉であるぐらい、夏の風物詩となっており、私達の生活になじんでいる(※注1)。

 お盆は一般に「仏様を敬う」あるいは「ご先祖さまを尊ぶ」というように、ご先祖や亡き人の霊を迎えて、家族揃って丁寧にもてなし、ご先祖に感謝したり、父母の長寿を願ったりする行事である。
 このように、我々日本人の生活習慣の一部、お正月のような年中行事の一つともなっているほどであり、夏の重要な行事だ。

 お盆と正月は、日本の二大国民的行事である。お盆とりわけ八月の月遅れの盆の頃は、故郷で、お盆を迎える人たちの帰省ラッシュが全国で起こる。民族の大移動というべき光景が、日本各地で繰り広げられる。

 お盆というのは、昔から日本人の生活のなかに、しっかりと根ざしている、夏の季節の大切な節目となった。しかし、レジャー化しつつある最近の傾向は、日本の文化がだんだん薄れていくようで少々残念ではあるが・・・。

 「お盆」の正式名称は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」(※注2)である。盂蘭盆とは、サンスクリット語の「ullambana(ウラバンナ)」を音訳したものである。「(先祖や関係者が地獄や餓鬼道に落ちて)逆さづりにされ(苦しんでいる)」という意味で、そのために供養を営むのが盂蘭盆会とされている。

 もっとも、この行事自体は、輪廻転生(たとえ身内であっても、転生したら別人格の他者になる)を説くインド的考え方ではなくて、先祖を祀ることを重視する中国(儒教)的な発想である。あるいは、もっと踏み込んで、日本の固有の信仰・風習の祖霊崇拝であるといってもよいかもしれない(※注3)。仏典に『盂蘭盆経』というのがあるが、これなど、後代に中国で創作されたものとされている。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)我国では推古天皇十四年(六〇六年)七月十五日に斎会を設けたのが始まりとされているが、本格的には斉明天皇三年(六五七年)七月十五日に、飛鳥寺(元興寺)の西に須弥山の像を作り、盂蘭盆会を催したのが初めてではないかと考えられている。

 聖武天皇天平五年(七三三年)からは、盂蘭盆会の供物を大膳職の管掌と定められ、以降、平安時代には盛んに行われた。私達日本人は実に約千四百年もの間、お盆(盂蘭盆会)の行事を行ってきたのであるが、民間(一般庶民)で行われる様になったのは、江戸時代以降とされている。

(※注2)盂蘭盆(うらぼん)とは、梵語の「ウラバンナ」の音写だが、意味は「アバランバナ」つまり倒懸(とうけん・さかさ吊り)で、通常は単に盆といわれている。この盂蘭盆会にその由来を説いた「仏説盂蘭盆経」の教えにより、後には先祖供養の行事となるが、倒懸の苦を受ける死者のために祭りを行い、三宝に供養して、その苦を免れしめる行事である。

 この行事はインドの古い農耕儀礼としての「ピンダの祭」、すなわち死者祭祀・祖霊祭祀と仏教の夏安居の終了に際する僧院の自恣供養会との習合したもので、それが中国に伝来されるに至って、生者(父母・六種の親属)の供養にまで拡大されるようになった。

(※注3)我が国で行われている盆行事は、中国から伝来した行事と、我国固有信仰とが習合したものであることは明らかであり、「ぼんがま」といって屋外にカマドを築き、そこで煮たきして会食する習俗が、今なお残っていることから考えても、祖霊を迎えて共食をするという古い信仰形式がこの習俗の基盤をなしており、それはまた、正月行事と非常な類似をみせているものである。


スサノヲ(スサノオ)  

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2006年07月31日

◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(九)




◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(九)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、大阪天満宮と菅原道真公

 大阪天満宮の創始(御鎮座)は、平安時代中期に遡る。菅原道真公は、延喜元年(九〇一年一月二十五日)、政治の上で敵対視されていた藤原時平の策略により昌泰四年(九〇一年)九州太宰府の太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されることになる(※注1)(※注2)(※注3)(※注4)。

 菅公(菅原道真公)は、摂津中島の大将軍社に参詣した後、太宰府に向うが、二年後にわずか五十九歳でその生涯をとじる(延喜三年/九〇三年二月二十五日)。その約五十年後、天暦三年(九四九年)のある夜、大将軍社の前に突然七本の松が生え、夜毎にその梢(こずえ)は、金色の霊光を放ったという。この不思議な出来事を聞いた村上天皇は、これを菅公(菅原道真公)に縁の奇端として、同地に勅命を以て鎮座された。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)菅原道真公は、多少の不遇の時を過ごしたが、宇多(うだ)天皇に寵愛され昌泰二年(八九九)、ついに左大臣藤原時平(ときひら)に次いで従二位右大臣となる。これは学者の家柄に生まれたものとしては、異例の出世であった。

 しかし、それが左大臣藤原時平(ときひら)を初めとする多くの人の嫉妬と猜疑を招き、「天皇の廃立を謀った」として(むろん時平らの策謀だが)、遂に昌泰四年(九○一年)一月、九州の大宰府に配流(はいる)となる(太宰権帥〈だざいのごんのそつ〉に左遷。これは中央政界での失脚を意味する)。

(※注2)昌泰四年(九○一年)二月一日、菅原道真はあわただしく都(平安京)をあとにし、九州の大宰府に向うが、厳しい監視のもと食料や馬の支給も無く過酷な旅であったようだ。大宰府での暮らしも、惨めの一言に尽きるもので、粗末な家屋に井戸も無く、老齢で病みがちな菅原道真は自ら井戸を掘らなければならなかった。
 それ以来、菅原道真は憤懣やるかたない日々を過ごすことになるが、流されて二年後の延喜三年(九○三年二月二十五日)、菅原道真は大宰府で亡くなる(五十九歳の生涯を終える。無念の死であったのであろう)。

(※注3)菅原道真の屍を、近臣の味酒安行(うまさけのやすゆき)たちが牛車で運んでいると四堂(よつどう)という場所で、急に牛が歩みを止めて動こうとしなくなったので、その地に菅原道真を埋葬、そして延喜五年(九○五年)、御堂を建て、安楽寺と称したとされている。これが大宰府の起源である。京での崇りの後ちの、正一位太政大臣の贈位。最後は天満大自在天神(天神様)と崇められ親しまれる神となる。

(※注4)天神様はもと崇り神だ。平安京を震撼させた荒ぶる魂・怨霊の神で都人に恐れられていた。しかし、怨霊となった菅原道真公は神の位に昇り、「天満大自在天神」という神名で呼ばれるとようになる。そして天神様を祀る神社を「天満宮」といい、京都の北野天満宮を筆頭に、天神信仰は全国に広まった。現在全国の神社総数約八万社のうち、天満宮の数は一万二千社を超えるといわれている。


スサノヲ(スサノオ)  

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2006年07月31日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(二十一)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(二十一)

◆◇◆祇園祭(祗園御霊会)、祇園神は、スサノオ命(須佐之男命・素戔嗚尊)=武塔神=牛頭天王(4)

 祇園社(祇園御霊会)の「祇園の神」(※注1)は「牛頭天王」(ごずてんのう)(※注2)とされているが、これも明治後スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)に一本化され、八坂神社の祭神はスサノヲ命に改められた(※注3)。

 それはスサノヲ命と牛頭天王は同体(※注4)だということからだ(同体化は、八坂神社創建の時点に遡る。社名も幾度も変わり実体を捉えるのは困難でる。しかし、津島神社の同体化の経緯から探ることができそうだ)。

妻神・子神である合祀の女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちも、クシナダ姫と八柱の御子神とに変更された。女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちは、元々は、道教の神々であった。頗梨采女は「歳徳神」であり八王子は「大将軍」などの八方位神であったのだ。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 古来より疫病除災の神として信仰を集めた「祇園の神」は、八坂氏(八坂造一族)の祀ったスサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)、道教系の牛頭天王(ごずてんのう)とその妃神頗梨采女(はりさいにょ=竜王の第三女)と子供たちである八王子であった。

 しかし、江戸時代後期の平田神道(国学)や明治維新の「神仏判然令」によって、『記・紀』神話に基づいて編成し直され、スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)とクシナダヒメ命(櫛稲田姫命)、とヤハシラノミコガミ(八柱神子神)ということに、無理やりに一本化される。

 庶民からは、牛頭天王は、武塔天神ともいわれ中国の辟邪神天刑星の属性を持ち、頗梨采女は歳徳神として、八王子は大将軍・歳破神・豹尾神などのいわゆる遊行性の「金神七殺」系の神(「恐ろしい危険な神」であると同時に、「悪方向・災難からわれわれを守ってくれる神」)として、深く信仰されていく。

(※注2) 牛頭天王(天竺の牛の頭に似た「牛頭山にいたと伝えられ、そこにあった栴檀が熱病に効くところから、疫病などを防除すると信じられた)は別名「武塔天王」(武装して手に塔を捧げ持つ毘沙門天と同体異名とされた)とされるが、牛頭天王=武塔天王は、スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)であると見なす所伝が古くからあった。

(※注3) 明治時代の初めの「神仏分離令」(神仏判然令)により改名するまで、八坂神社は祇園社と称して、「牛頭天王(ごずてんのう)」が祀られていた。

 牛頭天王とは、もともとインドの祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神で、日本では、疫病神(えきびょうしん)として考えられるようになった。

 荒ぶる神性が、疫気を祓う威力を発すると古くから信仰上でとらえられてきのであろう。スサノヲ命は、一名を「糺(ただす)の神」ともいう。人々を悪疫から守り秩序ある状態に導く善神と意識されたからだ。

(※注4) スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)はその神威(霊威)の強大さからなのか(古代の人は、『記・紀』神話の荒れすさぶる神・スサノヲ命が、追放され辛苦を重ねた末、心を清めて、この世を救う善神・英雄神となるスサノヲ神話を通して、スサノヲ命・須佐之男命・素盞嗚尊に威力のある神、疫病防除の霊験を持つ神と信じたのであろう)、牛頭天王(疫神=疫病払いの神)と習合(同体化)する。

 同体化は、八坂神社創建の時点に遡る。スサノオ命(須佐乃男命・素盞鳴尊)このように疫神(疫病払いの神)・農耕神・雷神・水神として崇拝されていくのだ。


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2006年07月30日

◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(八)




◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(八)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、大阪天満宮と大将軍社
     
 大阪天満宮(大阪市北区天神橋2丁目鎮座)は、道真公が太宰府に下向の際に、河内の道明寺に泊り大阪より船出の折、大将軍社に参詣され大将軍の森から乗船し西に向かったとされている。後の天暦三年(九四九年)のある夜、不思議な出来事が起こった。

 大将軍社の前に、一夜のうちに七本の松が生え、夜毎に、その梢は金色に光り輝いたという。この報告を受けた村上天皇は、これを道真公の縁りの奇瑞として、村上天皇の勅願により大将軍の森に大阪天満宮が創建された。以来この森は「天神の森」と称されている。

 大将軍社については、歴史は古く、飛鳥時代の白雉元年(六五〇)、孝徳天皇が難波・長柄豊碕宮鎮護のために、宮の西北に置いた守護神大将軍社が、現在境内にある大将軍社とされている(長柄豊碕宮鎮護のため、現在境内摂社の大将軍社を祀ったのが最初といわれている)。実際、いまも地主神として大阪天満宮の一角に鎮座している。

 すると、道真の参拝をきっかけに天満宮へ変わる以前、すでに三世紀の歴史があったわけだ。この「大将軍」(※注1)は、京都の祇園社の牛頭天皇(素戔嗚尊)の一子が道教の大将軍である。ここにも道教の影響が色濃くあるのだ。

 大阪天満宮の天神信仰は、星合七夕祭のような疫病への対処を星に祈る星辰信仰と、もともと天満の地に祭られていた大将軍社と菅原道真の怨霊を鎮める信仰の三つが結びついて天神信仰になったようだ。疫病が流行る夏にこうした祭りが行われたのは、昔の人々の疫病や災厄の恐怖から逃れたいとの切なる願い(疫病の流行る夏を無事過ごせるように)が、「穢れの祓え流し」の儀式(※注2)としての祭りと信仰を生みだしたのであろう。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)桓武天皇は怨霊に対しての怯え方は異常で平安京の周囲に「結界(霊的なバリア)」を何重にも張り巡らせていた。桓武天皇は「風水による結界」だけでは物足りず、平安京の周囲四カ所にあった「磐座(いわくら・古代の人々が神に祈りを捧げた巨石)」をわざわざ掘り起こし、「一切経」という悪鬼を退散させるお経をその下に埋め込み、平安京の周囲に新たに「結界」を張ったと言われている。

  そして更に桓武天皇は「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の弟「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」を平安京の周囲に祀って「大将軍(たいしょうぐん)」と名付け、これまた霊的な結界を張ったという。北…「大将軍神社」(京都市上京区西賀茂角社町) 、東…「大将軍神社」(京都市東山区東山長光町) 、南…「大将軍社(藤森神社)」(京都市伏見区深草鳥居崎町) 、西…「大将軍八神社」(京都市上京区一条通御前西入ル) 。すごい念入りに三重の結界を張り巡らしたのだ。

(※注2)鉾流神事は天神祭以前の神事に由来するともされ、「穢れの祓え流し」の儀式だったと考えられている。もっとも、祓え流しには人形(ひとがた)が形代(かたしろ。ケガレを移す身代り)として使われていた。その人形や形代は、下流へ、海へと流されていったんのだ。そしてその海は常世へと至る(大祓え祝詞)。常世はまた、神のいる所でもあります。古式では、鉾流しは旧六月一日に、六月二十五日に船渡御が行われた。


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2006年07月30日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(二十)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(二十)

◆◇◆祇園祭(祗園御霊会)、祇園神は、スサノヲ命(須佐之男命・素戔嗚尊)=武塔神=牛頭天王(3)

 そのことは、『伊呂波字類抄』に、「天竺北方の九相国に吉祥園があり、牛頭天王はその城の王で武塔天神ともいう」と記されており、さらに『備後国風土記』の逸文には、「昔、武塔神が旅の途中、蘇民将来は貧しかったけれども宿を貸してもてなし、弟巨旦将来は富み栄えていたが断ったため、後に疫病が流行したとき、蘇民将来の子孫には茅の輪をつけて災から免れさせたが、その他の者はことごとく死に絶えた」という説話が記されていて、これに「われはハヤスサノヲの神(速須佐雄能神)なり」と云ったとあることによる。

 『釈日本紀』には「これすなわち祇園社の本縁なり」ともあり、古くより、牛頭天王(※注1)と武塔神(※注2)が、スサノヲ命(素戔嗚尊)(※注3)と習合されていたことがわかる。昔は、疫病は死に直結する恐ろしい災厄であった。だから、疫病を鎮める力を持つ神に対する信仰は、大変に篤いものがあった。そうした神様が京都八坂神社の牛頭天王(ごずてんのう)であり、武塔(むとう)神であり、スサノヲ命(須佐之男命・素戔嗚尊)であったのだ。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) インド仏教の祇園精舎の守護神・牛頭天王は、中国に渡り、民間信仰の道教と習合する。そして、牛頭天王は、道教の冥界の獄卒となる(もともとは「地獄」の獄卒)。その他にも、道教と習合した仏教には、馬頭羅刹(めずらせつ)や閻羅王(閻魔)も登場することになる。その牛頭天王・馬頭羅刹が日本に伝来すると、それぞれ牛頭天王・馬頭観音(ばとうかんのん)へと変わっていくのだ。そこには、農耕文化と天神信仰との関わりがみられる。

 天神信仰では、農耕の際、雨乞いの祭りをするのだが、そのときに犠牲を捧げるのだそうだ。それが牛や馬であった。牛・馬は家畜というよりも、もとは犠牲の動物だったのだろうか。そうしたことからか、牛・馬は神社と深い因縁があるようになる(「絵馬」は元来、馬の犠牲の名残だ。京都では祈雨止雨の祈祷の際、馬が奉納されたそうである)。古くは、「祇園社」では、牛を祭って天神の怒りを鎮め、疫病を防止しようとしたのである。

(※注2) 『備後国風土記』は次のように語っている。「昔、北の海にいた武塔神(スサノヲ)が、南の神の娘に求婚に来た折り、日が暮れてしまった。丁度そこに住んでいた、蘇民将来、巨旦蘇民の兄弟に宿をこうた。弟の巨旦蘇民は、たくさんの家や倉などを所有している豊かな生活にもかかわらず、宿を貸さなかった。兄の蘇民将来は、子沢山で食べる物もない貧さなのに、快く武塔神を泊めた。その後、武塔神は再び蘇民将来を訪れ、『茅の輪を腰の上につけなさい』といった。その夜、武塔神は、この茅の輪を身に付けていた蘇民将来の子孫以外を悉く殺してしまったのである。そして次のように言う。『後の世に病気などが流行った時、蘇民将来の子孫といって、茅の輪を腰に付ければこの害を逃れることができる』と…。この神話伝承に基づき、茅の輪神事や蘇民将来に関する行事が行われている。

(※注3) かなり早くから牛頭天王=武塔神とスサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)とを同一視する習合思想が流布していたように思われる。古代の人は、『記・紀』神話(荒れすさぶる神が、追放され辛苦を重ねた末、心を清めて、この世を救う善神・英雄神となるスサノヲ神話)を通して、スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)に威力のある神、疫病防除の霊験を持つ神と信じたのであろう。


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2006年07月29日

◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(七)




◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(七)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、大阪天満宮の創始

 大阪天満宮の創始(御鎮座)は、平安時代中期に遡る。菅公(菅原道真)は、延喜元年(九〇一年一月二十五日)、政治の上で敵対視されていた藤原時平の策略により昌泰四年(九〇一年)九州太宰府の太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されることになる。

 菅公(菅原道真)は、摂津中島の大将軍社に参詣した後、太宰府に向うが、二年後にわずか五十九歳でその生涯をとじた。(延喜三年/九〇三年二月二十五日)その約五十年後、天暦三年(九四九年)のある夜、大将軍社の前に突然七本の松が生え、夜毎にその梢(こずえ)は、金色の霊光を放ったという。この不思議な出来事を聞いた村上天皇は、これを菅公(菅原道真)に縁の奇端として、同地に勅命を以て鎮座されたという(※注1)。

 大将軍社(※注2)は、その後摂社として祀られるようになったが、大阪天満宮では、現在でも、元日の歳旦祭の前に大将軍社にて「拂暁祭(ふつぎょうさい)」という祭りを行い、神事の中で「祖(そ)」と言ういわゆる借地料を納める習わしになっている。

 大将軍社のいわれや歴史、信仰については、大化改新後の孝徳天皇が都した難波・長柄豊崎宮の西北に置かれた守護神大将軍社だといわれている。実際、いまも地主神として天満宮の一角に鎮座している。この「大将軍」は、祇園社の牛頭天王の一子が道教の大将軍であったことから、道教の影響を窺うことができる。

 京都の御霊会でも「疫神」を祓い流すことが行なわれていたが、それが流されたのがここ大阪湾であった。天満の地は、菅公(菅原道真)に縁のある地だが、それ以上に、かつてそれ以前からこの「祓い流し」の適地として、大阪天満宮があったように思われる。それが「天神祭」の鉾流神事や船渡御の船行事にも繋がっているように思われるのだ。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)天神(天神様)はもともと農耕を左右する天候、特に雨をもたらす雷の神様であった。しかし、菅原道真公の左遷と憤死の後、京の都が相次ぐ天災飢饉に見舞われると、誰となく「恨みを残して死んだ菅原道真公の怨霊が祟っているのではないか」と噂するようになる。菅原道真公は当初、崇り神とされたのだ。

 平安京を震撼させた荒ぶる魂・怨霊の神で都の人々に恐れられていた。その菅原道真公の祟り(怨霊)と農耕の神の「雷公」「雷神」のイメージとが結び付き、天神信仰が一気に拡大していったのである。

 もともと怨霊であった菅原道真公も、「天満大自在天神」という神名で祀られるようになると国家鎮護の神となり、五穀豊穣の神、歯痛の神などへとイメージを変えていく。そして天神様を祀る神社を「天満宮」といい、京都の北野天満宮を筆頭に、天神信仰は全国に広まった。現在全国の神社総数約八万社のうち、天満宮の数は一万二千社を超えるといわれている。

(※注2)『和漢三才図会』には、京都の「大将軍社」について記されている。それによると、「桓武天皇は平安域の四方(東西南北)に将軍塚を築き、王城の鎮護とされた。各々祭る神に異説がある。西京一条の西、大将軍町(現上京区一条通御前通西入)に大将軍杜があり、現在の祭神は素盞嗚尊五男三女の神と、聖武・桓武両帝である。元は西方の社で星を祭ったという。大将軍杜 四ヵ所にある。」とある。

 「大将軍」とは、陰陽道でいう方位の吉凶を司る八神の一柱であったそうだ(大歳神・大将軍・大陰神・歳刑神・歳破神・歳殺神・黄幡神・豹尾神)。

 しかも、この方位を司る「大将軍」は、スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)と同一視されていたようだ。素戔嗚尊は牛頭天王であり、暦のすべてを支配する神として信仰され、櫛稲田媚命は歳徳神、八柱之御子神は八将神として暦の上では吉方・凶方を司る神とされている。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)桓武天皇は怨霊に対しての怯え方は異常で平安京の周囲に「結界(霊的なバリア)」を何重にも張り巡らせていた。桓武天皇は「風水による結界」だけでは物足りず、平安京の周囲四カ所にあった「磐座(いわくら・古代の人々が神に祈りを捧げた巨石)」をわざわざ掘り起こし、「一切経」という悪鬼を退散させるお経をその下に埋め込み、平安京の周囲に新たに「結界」を張ったと言われている。

  そして更に桓武天皇は「天照大神(あまてらすおおみかみ)」の弟「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」を平安京の周囲に祀って「大将軍(たいしょうぐん)」と名付け、これまた霊的な結界を張ったと言われている。北…「大将軍神社」(京都市上京区西賀茂角社町) 、東…「大将軍神社」(京都市東山区東山長光町) 、南…「大将軍社(藤森神社)」(京都市伏見区深草鳥居崎町) 、西…「大将軍八神社」(京都市上京区一条通御前西入ル) 。すごい念入りに三重の結界を張り巡らしたのだ。


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2006年07月29日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十九)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十九)

◆◇◆祇園祭(祗園御霊会)、祇園神は、スサノヲ命(須佐之男命・素戔嗚尊)=武塔神=牛頭天王(2)

 平安京の成立とともに人口が急増、それとともに疫病(悪疫)が度々流行る(むかしは、疫病の流行は大災害であった)。京の人々は恐怖し(※注1)、それを何とか防ぎ除くために、「道饗祭(みちあえさい)」「疫神祭」「御霊会(ごりょうえ)」(※注2)が頻繁に行われた。

 京の郊外にあった八坂の地でも、貞観十一年(八六九年)、「御霊会(ごりょうえ)」が行われ、これが祇園祭(祗園御霊会)(※注3)の始まりとされている。さらに疫病(悪疫)を祓う威力(霊威)の強い神を求めようとした(※注4)。

 貞観十八年(八七六年)、播磨の広峯社(現姫路市内)から疫神=疫病払いの神として牛頭天王(すでに播磨の広峯社の時点で、牛頭天王と素戔嗚尊は同体化・習合されていたようだ)が勧請された。疫病払う神・牛頭天王(※注4)は、日本人にとっては素戔嗚尊であったのだ。また、スサノオ命(素戔嗚尊)は武塔天神ともされた。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 古代の人は、疫病を何ゆえに生ずると考えたのであろうか。古代の人は漠然とではあるが「疫神」の仕業と考えていたようだ。また一方では、政争などにより非業の最期をとげた者の霊が、怨みを晴らすため(怨霊)、この世に疫病などの災いをもたらすと考えたのである。このため、古くから「道饗祭(みちあえさい)」「疫神祭」「御霊会(ごりょうえ)」が行われていた。

(※注2) 平安時代初期(九、十世紀頃)、京の都には幾度も疫病が流行した。医学の未発達な当時の人々は、それを疫神や祟り神の祟りだと考えのである。そこで、都のはずれで疫神にお経をあげたり、楽を演奏したりして慰め、町の外へ祓う儀式、「御霊会(ごりょうえ)」を行った。

 その頃の祇園は京の都の町外れにあたり、この「御霊会」がよく行われた。やがて祇園には、疫神を祓う威力があるといわれる、牛頭天王(ごずてんのう)が祀られた。これが祇園社、現在の八坂神社になる。

(※注3) 貞観十一年に疫病が流行した際、卜部日良麻呂が、数年前の神仙苑の「御霊会」にヒントを得たのか、京の都の東方向の郊外にあたる八坂付近の人々を率いて、疫病をもたらす怨霊を神輿に封じて神仙苑へ送り込むような祭りを行う。

 『祇園社本録縁録』には「貞観十一年(八六九年)、天下大疫の時、宝祚隆永・人民安全・疫病消除・鎮護のため、卜部日良麻呂(うらべひらまろ)、勅を奉じて、六月七日、六十六本の矛(長さ二丈ばかり)を建つ。同十四日、洛中の男児及び郊外の百姓を率いて神輿を神仙苑に送り、以て祭れり。これ祇園御霊会と号す。爾来、毎年六月七日と十四日、恒例と為す」とある。

(※注4) 牛頭天王とは、もともとインドの祇園精舎の守護神で、中国で道教の神々と習合した後、日本では、疫病神(えきびょうしん)として考えられるようになった。また、祇園祭(祗園御霊会)は、祇園社の祭神であった「牛頭天王」を指して、天王祭とも呼ばれている。

 祇園社の社名の改称とともに、祭神も変更したが、祭りの名称は、そのまま残り、現在に受け継がれている。荒ぶる神性が、疫気を祓う威力を発すると古くから信仰上で捉えられてきたからだ。また、スサノヲ命(素戔嗚尊)は、一名を「糺(ただす)の神」ともいう。人々を悪疫から守り秩序ある状態に導く善神と意識されたからだ。


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2006年07月28日

◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(六)




◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(六)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、天神祭の歴史

 天満宮御鎮座の翌々年、天暦五年(九五一年)に社頭の浜から神鉾を流し、流れついた浜に斎場を設け、疫病のはやる夏を無事過ごせるように「禊(みそぎ)」を行なった。その際、神領民や崇敬者がこぞって船を仕立ててお迎えしたのが天神祭の始まりとされている。その後、幾多の変遷を経て、それ以来、船の数も増え、豊臣秀吉が大坂城を築いた頃には、今日のような船渡御の形が整ってく。
 堂島川への土砂流入で船渡御が中止になったこともあるがが、天下の台所(※注1)と呼ばれた元禄時代(十七世紀後半)(※注2)以降、天神祭は浪速の繁栄のシンボルとして隆盛をきわめ、享保年間(十八世紀前半)には「講」という祭りを支える組織が誕生し、新たにお迎え人形も登場し、祭りの豪華さは全国に名を馳せるようになった(元禄以後は、商人の町大坂の繁栄とともにますます隆盛を極めたという)。天神祭は、一千余年の歴史を誇る日本を代表する祭りである。

 幕末の政変や二度の世界大戦で中断があったものの、昭和二十四年に船渡御が復活。また、地盤沈下の影響で大川を遡航するという現在の形になったのは昭和二十八年からのことである。天神祭には幾多の変遷があり、その存続が危ぶまれた時期もあった(※注3)。しかしその度に困難を打開し、伝統を守り、盛り上げていったのは浪速っ子の土性骨と心意気である。天神祭は今も、そうした人々の熱いエネルギーに支えられ発展していった。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)天神祭が行われる大川は江戸時代には「出船千艘・入船千艘」 といわれ各藩の蔵屋敷がずらっと建ち並んでいたところである。また天満橋と天神橋の間には青物市場、堂島には米市場、雑喉場(ざこば)には魚市場があってたいそう賑わっていた。水を守り自然を大切にしながら、そこに神様をお迎えするというのが天神祭の基本である。

(※注2)天神祭の宵宮祭と本宮祭の両日、各町内の神輿や子供神輿がにぎやかに宮入りする。江戸時代には、二十四日の宵宮に氏地内の地車(だんじり)がクジで決めた順番通りに華やかに宮入りするのが、二十五日の船渡御と並ぶもう一つの天神祭のハイライトであった。最盛時には、七十台を越える地車が繰り出したという。今、ただ一台残る地車は、嘉永五年(一八五二年)製の「三ッ屋根地車」である。

 また、江戸時代には、各町の町人たちが「お迎え人形」を街角に飾った。人形は身長約二・四メートル、船渡御の際には人形船の舳先に立てて御神霊をお迎えしたことから、「お迎え人形」と呼ばれた。金糸・銀糸で縫いとった美しい衣裳・贅沢の限りを尽くした小道具など、それはもう豪華絢爛そのものである。

 当時は五十体ほどあったが、今は十七体が残るだけで、うち十四体が大阪府の民俗文化財に指定され、十六体が大阪天満宮に保管されている。天神祭の両日、そのうちの数体が境内に展示される。

(※注3)千余年の歴史ある大阪天満宮の天神祭は、厳粛な神事として古式の伝統を由緒正しく守りながらも、その時代時代の社会情勢にダイナミックに反応して今日に受け継がれてきた(天神祭は浪速っ子に支えられて続けられてきた)。

 しかし、昭和二十四年に船渡御が復活した後も、戦後二回ほど中止になったことがある。一回目は昭和三十三~三十四年のスターリン暴落で大阪の経済が落ち込んだ時だ。二回目は昭和四十九年の石油ショックの時である。


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2006年07月28日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十八)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十八)

◆◇◆祇園祭(祗園御霊会)、祇園神は、スサノヲ命(須佐之男命・素戔嗚尊)=武塔神=牛頭天王(1)

 祇園祭(祗園御霊会)が始まったのは、平安京が定められて、都市化が進んだ貞観十一年(八六九年)だ。しかし、「祇園神」が鎮祭されたのは、それよりさらに古く、奈良時代以前に遡る。記録の上では詳らかでないが、斉明天皇二年(六五六)高句麗の使、伊利之使主(いりしおみ)が来朝したときと伝えられている。

 伊利之は『新撰姓氏録』に八坂造の祖に、意利佐の名がみえ、祇園社附近はもと八坂郷と称したことによる。すなわち、高句麗より渡来した人々が住みついて、スサノヲ命(素戔嗚尊)を祀ったとされている。また八坂氏は古くから八坂の地で、農耕神として「天神」(雷神)も祀っていた。

 平安京の成立とともに人口が急増、それとともに疫病(悪疫)が度々流行した(むかしは、疫病の流行は大災害でした)。京の人々は恐怖し、それを何とか防ぎ除くために、「道饗祭(みちあえさい)」「疫神祭(えきしんさい)」「御霊会(ごりょうえ)」が頻繁に行われた。

 都の郊外にあった八坂の地でも、貞観十一年(八六九年)、「御霊会(ごりょうえ)」が行われ、これが祇園祭(祗園御霊会)の始まりとされている。さらに疫病(悪疫)を祓う威力(霊威)の強い神を求めようとした。

 貞観十八年(八七六年)、播磨の広峯社(現姫路市内)から疫神=疫病払いの神として牛頭天王(すでに播磨の広峯社の時点で、牛頭天王と素戔嗚尊は同体化・習合されていたようだ)が勧請された。疫病払う神・牛頭天王は、日本人にとっては素戔嗚尊であったのだ。また、スサノヲ命(素戔嗚尊)は武塔天神ともされた。

 そのことは、『伊呂波字類抄』に、「天竺北方の九相国に吉祥園があり、牛頭天王はその城の王で武塔天神ともいう」と記されており、さらに『備後国風土記』の逸文には、「昔、武塔神が旅の途中、蘇民将来は貧しかったけれども宿を貸してもてなし、弟巨旦将来は富み栄えていたが断ったため、後に疫病が流行したとき、蘇民将来の子孫には茅の輪をつけて災から免れさせたが、その他の者はことごとく死に絶えた」という説話が記されていて、これに「われはハヤスサノヲの神(速須佐雄能神)なり」と云ったとあることによる。

 『釈日本紀』には「これすなわち祇園社の本縁なり」ともありまして、古くより、牛頭天王と武塔神が、スサノヲ命(素戔嗚尊)と習合されていたことがわかる。昔は、疫病は死に直結する恐ろしい災厄であった。だから、疫病を鎮める力を持つ神に対する信仰は、大変に篤いものがあった。そうした神様が京都八坂神社の牛頭天王(ごずてんのう)であり、武塔(むとう)神であり、スサノヲ命(須佐之男命・素戔嗚尊)であったのだ。

 祇園社(祇園御霊会)の「祇園の神」は「牛頭天王」(ごずてんのう)とされているが、これも明治後スサノヲ命(須佐之男命・素盞鳴尊)に一本化され、八坂神社の祭神はスサノヲ命に改められた。スサノヲ命と牛頭天王は同体だということからである(同体化は、八坂神社創建の時点に遡ります。社名も幾度も変わり実体を捉えるのは困難だ。しかし、津島神社の同体化の経緯から探ることができそうである)。

 妻神・子神である合祀の女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちも、クシナダ姫と八柱の御子神とに変更された。女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちは、元々は、道教の神々であった。頗梨采女は「歳徳神」であり八王子は「大将軍」などの八方位神であったのだ。


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2006年07月27日

◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(五)




◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(五)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、星合七夕祭と星辰信仰

 天神祭の神事は七月七日の星合(ほしあい)七夕祭から始まりる。七夕というと夜空の牽牛(鷲座のアルタイル)と織女(琴座のヴェガ)でる。大阪天満宮は今から千五十年程前(九四九年)にこの地(北区天神橋)にご鎮座した。鎮座の由来によりますと「星合(ほしあい)の池(※注1)(※注2)(※注3)に松樹(しょうじゅ)あり、松樹に霊光を見る」とあるが、これは平安の頃の星辰(せいしん)信仰のようでる。

 昔の星辰信仰(星に神秘的な霊力を託して尊崇する信仰)というのは、空に輝く星に対する信仰ではなくて、水に映る星に対する信仰であったと考えられている。そういうことから、古い文献にも大阪天満宮の星合(ほしあい)池で昔から星合七夕祭が行われていたことが記されていた。

 七夕祭が行われる七月七日に、全講社の講元が本殿に参拝して神事が行われ、七月二十四日に宵宮、二十五日に夏大祭のクライマックスを迎える本宮の天神祭が始まる。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)天暦二年(九四九)天満宮が御鎮座になった時、この池水に霊光が映ったとの伝承がある。また、天正二年(一五七四年)の『石山軍記』に「天満山の北、明星の池、星合の池の間、少し北に属し、織田信長本陣を布き」と記録されている。星合の池は、少なくとも千年以上の歴史を持つ古池である。

 なお、付近に七夕池、明星池、夫婦池等が明治年間まで現存していたそうだ。昭和の初めまで池には「宇賀の社」があり、紅梅紫藤が咲き乱れ、付近には歌舞伎を常打とした天満八千代座、浪花節の国光席、吉本興業発祥となった天満花月吉川館などの寄席が隣接していた歓楽街であり、極めてにぎやかな所であった。

(※注2)かつて天満には「明星池」「七夕池」「星合池」という星にちなむ三つの池があり、天満三池という。現在の星合池(亀の池)は、古い資料によると「はす池」「長池」「亀池」などと呼ばれていた。

 昔の「星合池」は大阪天満宮の北門を出て国道一号線に出た左側付近である。「七夕池」堀河小学校の片隅に跡地がある。「明神池」も今はガレージになっている。このかつての天満三池に映る星が信仰の対象になっていたようだ。疫病への対処を星に祈る星辰信仰である。

 そういう由来のある池なので、池が消えていっても残った池を星合池と呼ぶようになったのであろう。この星辰信仰と、もともと天満の地に祀られていた大将軍社、菅原道真公の怨霊を鎮める信仰の三つが結びついて大阪天満宮の天神信仰になったようだ。星合池は、ロマンチックというよりも昔の人々の切なる願いをかけた池であり、名前だったのである。

(※注3)星合の池:大阪天満宮の境内の北側にある小さな池のことだ。池には「星合橋」という小さな橋がかかっていたり、「星合茶屋」という名の茶店がある。江戸時代の資料を見ると、星合の池の少し北には「明星池」という池もあったが、こちらは明治時代に無くなっている。

 江戸時代の文献『摂津名所図会大成』によると、その昔天満宮に神様が鎮座した最初の夜に、大きな松の樹が生え、その梢に明星が降臨し、星の光が池の水に光り輝いたということから「明星の池」と名づけられたとされている。現在も残っている星合の池の方の由来は伝わっていないようだが、池の前にある由来書には先の明星池の伝説が、星合池のそれとして紹介されている。しかし、江戸時代には既に二つの池が混同されていたようなので、そこから来た誤解と思われる。


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2006年07月27日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十七)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十七)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、久世駒形稚児の綾戸国中神社は高句麗系か?

 山城国の乙訓郡大山崎の南部に高句麗系の移住民らが開発したといわれる「高麗田」がある。彼らが淀川を船で溯って山崎津に上陸しこの土地を開墾したのがその由来とされている。近くの天王山中腹の大念寺の過去帳には、高麗屋の屋号の遺名が散見している。

 天王山の中腹には橘氏の氏神を祀る酒解神社(自玉手祭来酒解神社=たまてよりまつりきたるさかとけじんじゃ、乙訓地方で最も古い神社、祭神:山崎神・橘氏の主神)があり、その後「天神八王子社」(祭神:大山祇神、素戔鳴尊、他九神)が祀られて「山崎天王社」と称され、山崎山と称されていたこの山も「天王山」と呼称されるようになった。

 高句麗系の移住民らが奈羅(現在の八幡町上奈良、下奈良)に定住、繁栄した(高麗田の対岸)そうである。樫原廃寺の東南に位置する、南区久世上久世町の綾戸国中神社の祭神はスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)=牛頭天王だ。

 いまも祇園祭では綾戸国中神社の駒形稚児(駒形=馬の頭、駒=高麗?)が祇園社・八坂神社(高句麗系の八坂造の創建?、祭神:牛頭天王=素盞鳴尊)に乗り入れ、神前に参拝して初めて神輿の渡御がはじまる慣例になっている。このことは、綾戸国中宮神社の周辺にも多くの高句麗系の移住民が居住していたとも考えられるのだが?

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、綾戸国中神社(京都市南区久世上久世町446)

 綾戸国中神社は、昔は綾戸(あやと)宮と国中(くなか)宮の二社に別れていたが、現在は一社殿とし、向かって左の御扉に綾戸宮、右の御扉に国中宮を祀っている。御祭神は、綾戸宮が大綾津日神・大直日神・神直日神 で、国中宮がスサノオ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)だ。

 大綾津日神、大直日神、神直日神を御祭神とする綾戸宮は、第二十六代継体天皇十五年に綾戸大明神として三柱の神を勧請され、六十二代村上天皇天暦九年に綾戸宮と改められ、上久世の里の産土神として古くより氏子が崇拝してきた。

 スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)を御祭神とする国中宮は、神代の頃、午頭天皇(ごずてんのう)=スサノヲ命(須佐乃男命・素盞鳴尊)が山城の地、西の岡訓世の郷が一面湖水と化した時、天から降り、水を切り流し国となし、その中心に符を遣わしたとされている。

 その符とはスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の愛馬「天幸駒」の頭を自ら彫刻して、新羅に渡海の前にスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の形見として遣わしたとされている。この形見の馬の頭(駒形)が国中宮の御神体として祀られている。

 夏の祇園祭には稚児が駒形の御神体を胸に奉持して(久世駒形稚児)乗馬で供奉します。七月十三日:稚児社参祈願(祇園祭社参祈願祭)、七月十七日:稚児供奉祈願(祇園祭神幸祭供奉祈願祭)、七月二十四日:稚児供奉祈願(祇園祭還幸祭供奉祈願祭)


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2006年07月26日

◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(四)




◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(四)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、千余年の歴史ある浪速っ子の祭り

 天神祭が行われる大川は江戸時代には「出船千艘・入船千艘」 といわれ各藩の蔵屋敷がずらっと建ち並んでいたところである。また天満橋と天神橋の間には青物市場、堂島には米市場、雑喉場(ざこば)には魚市場があってたいそう賑わっていた。水を守り自然を大切にしながら、そこに神様をお迎えするというのが天神祭の基本であったのだ(※注1)。

 千余年の歴史ある大阪天満宮(※注2)の天神祭は、厳粛な神事として古式の伝統を由緒正しく守りながらも、その時代時代の社会情勢にダイナミックに反応して今日に受け継がれてきた(天神祭は浪速っ子に支えられて続けられてきた)。


 しかし、歴史ある天神祭も幕末の政変(※注3)や二度の世界大戦で中断があったが、昭和二十四年に船渡御が復活。また、戦後二回ほど中止になったことがある。一回目は昭和三十三~三十四年のスターリン暴落で大阪の経済が落ち込んだ時だ。二回目は昭和四十九年の石油ショックの時である。

 また、地盤沈下の影響で大川を遡航するという現在の形になったのは昭和二十八年からのことである。天神祭には幾多の変遷があり、その存続が危ぶまれた時期もあった。しかしその度に困難を打開し、伝統を守り、盛り上げていったのは浪速っ子の土性骨と心意気であった。天神祭は今も、そうした人々の熱いエネルギーに支えられ発展している。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)「鉾流し」の古式・鉾流神事は、水運等の事情で江戸時代初めには雑喉場(ざこば)の地に行宮が設定されるようになり、その本来の意味が失われたため中止になる。その復活は約三百年後の昭和五年(一九三〇年)のことだ。

 行宮の方は、雑喉場から戎島に、その後の明治には松島に移された。いずれにしても、江戸時代以来、本来のスタイルは失われている。なお、現在は鉾が「神童」によって流されるだけだが、この神事の直後、旧行宮の松島に神使が向かうともされている。

(※注2)大阪天満宮の創始(御鎮座)は、平安時代中期に遡る。菅原道真公は、延喜元年(九〇一年一月二十五日)、政治の上で敵対視されていた藤原時平の策略により昌泰四年(九〇一年)九州太宰府の太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されることになる。

 菅公は、摂津中島の大将軍社に参詣した後、太宰府に向ったが、二年後にわずか五十九歳でその生涯をとじる。(延喜三年/九〇三年二月二十五日)その約五十年後、天暦三年(九四九年)のある夜、大将軍社の前に突然七本の松が生え、夜毎にその梢(こずえ)は、金色の霊光を放ったという。

 この不思議な出来事を聞いた村上天皇は、これを菅公に縁の奇端として、同地に勅命を以て鎮座された。大将軍社は、その後摂社として祀られるようになったが、大阪天満宮では、現在でも、元日の歳旦祭の前に大将軍社にて「拂暁祭(ふつぎょうさい)」という祭りを行い、神事の中で「祖(そ)」と言ういわゆる借地料をお納めする習わしになっている。

(※注3)現在のご本殿は、弘化二年(一八四五年)に再建された物だ。この大阪天満宮は、江戸時代の記録に残るだけで七度もの火災に遭い、なかでも大阪市中を焼き尽くした享保九年(一七二四年)の妙知焼けや、大塩平八郎の乱による天保八年(一八三七年)の大火では、全焼してしまう。その約八年後に、大阪市中の氏子や崇敬者又献身的な奉仕者によって、現在のご本殿が再建された。


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2006年07月26日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十六)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十六)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)と八坂造

 八坂の地の八坂郷(※注1)は、山城国愛宕郡を構成する十三郷のひとつで、東山の麓にあり、坂が多いことから八坂と名付けられたそうだ。東山の西麓には、かなり古くから有力な集団がいたようである。

 このあたりは、四世紀後半から五世紀代にかけての首長墓も多く存在する。また、『新撰姓氏録』の山城国諸蕃(渡来人)条に「八坂造(やさかのみやつこ)は狛(こま)国人の留川麻乃意利佐(るかまのおりさ)より出づるなり」と記され、当地には狛=高麗(こま・高句麗)から渡来した人々が「八坂造」となり、勢力を張っていたとみられる。

 八坂神社の社伝によると、斉明天皇二年(六五六)高麗の調度副使伊利之使主の来朝にあたって、新羅の牛頭山に坐す素戔嗚尊を祀ったことに始まると伝えている(※注2)。伊利之(※注3)は『新撰姓氏禄』によると八坂造の祖である。

(※注1) この八坂の地は高句麗系氏族ゆかりの場所でもあった。京都のある山城国は、秦一族によって開拓されたが、そのあと高句麗系渡来人も山城国に入り、秦氏には及ばないが、今もその足跡を多く残している。

 『日本書紀』の欽明天皇二十六年(五六五)条に、「高麗人頭霧 耶陛等、筑紫ニ投化テ山背国ニ置リ。今ノ畝原、奈羅、山村ノ高麗人ノ先祖ナリ。」とある。これらの場所は、奈良に接した京都府南部の相良郡のあたりに推定され、かって大狛、下狛の二郷があり、今も地名に残っている。

 ここは渡来系の狛造氏のいたところだ。今はない高麗寺や狛寺も、狛造氏によって建てられたものであろう。また、高麗国使のための施設である相良館があったことも、『日本書紀』に記録されている。

(※注2) 八坂神社のおこりは、斉明天皇二年(六五六)、高句麗の副使の伊利之使主が素戔嗚尊(須佐之男命)を八坂郷に祀り、八坂造の姓を賜わったのにはじまるという。六世紀以前、山城国に入ってきた高句麗系渡来人が相良郡に定住していて、そういう背景のうえに八坂神社が祀られた。やがて平安京に遷都して、高麗氏族の主流も八坂郷に移ったのであろう。

(※注3) 八坂神社の祭祀は、古くには八坂造の子孫が務めていたようだ。伝わる系図によれば、伊利之の子・保武知は山背国愛宕郡八坂の里に居住して八坂造を賜り、八坂保武知と称した。以後、子孫は八坂の里に住したという。

 そして、真綱に至って、紀長谷雄の曾孫忠方の娘を妻として、二人の間に生まれた貞行は剃髪して行円を名乗り、永保元年(一〇八一)祇園社執行となる。以後、かれの子孫が代々祇園社執行を務めたとある。しかし、伝わる系図は中世の頃で途切れている。おそらく、中世になる比叡山の末寺として、執行職が派遣されていたものと考えられる。


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2006年07月25日

◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(三)




◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(三)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、天神祭の流れ(2):本宮祭

(4)、翌二十五日の十四時、本宮の本殿で夏大祭が斎行され、菅原道真公の御神霊を御鳳輦(ごほうれん)に遷し、天満宮から船着場の天神橋までの約四キロメートルを、催太鼓を先頭に約三千人の渡御列が陸渡御(※注2)する。やがて夕焼けに川面が染まる頃、船渡御が始まる。そして渡御列は次々に船に乗り込む。

(5)、同日の十八時、御神霊を乗せた御鳳輦(ごほうれん)などの奉安船を中心に、各講社の供奉船が取り囲んで天神橋から大川を遡って行く。一方、川上の飛翔橋からは奉安船を迎えるための奉拝船が下って行く。双方合わせて百隻あまりだ(※注3)。

 大川の中流に差し掛ると、御鳳輦船(ごほうれん)では厳粛に水上祭が始まる。一方、川の中ほどに固定された舞台船では、厳かな神楽や多彩な伝統芸能が上演され、天神祭囃子が天に届けとばかりに鳴り響きく。前日から堂島川・大川・道頓堀川などを鉦や太鼓を打ち鳴らして漕ぎ回っていたドンドコ(どんどこ)船の若衆の威勢のいい掛け声が祭りムードをかきたてる。

(6)、同日の二十時、大川の両岸に並ぶ八十基の衛士(えじ)篝の火が水面を照らし、二千発あまりの仕掛け花火や打ち上げ花火が夜空を華やかに彩り、照明で浮かび上がる大阪城をバックに、百隻あまりの渡御船が進み、祭りは最高潮に達する。

 三時間あまりの船渡御が済み、奉安船・供奉船が船着場に到着、宮入りが始まる。シンガリを務めた玉神輿が、待ち構えていた催太鼓と次々に「大阪じめ」で手打ちするのは二十二時頃となる。そして本殿では還御祭(かんぎょうさい)が斎行され、熱く燃えた二日間の幕を閉じる(※注4)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注2)神様に氏地の平安を御覧いただこうと、氏子たちが御迎えの行列を組んだのが陸渡御・船渡御の始まりです。陸渡御列の中心は、 神霊を奉安する御鳳輦(ごほうれん=御守護神様が御乗りになられた御車)ですが、この前後を催太鼓や神輿(みこし)、神具、牛車、旗、鉾などが供奉して氏地を巡回し、天神橋北詰めの乗船場まで進みます。かつての氏地各町では、地車(だんじり)を曳いて神様の渡御を悦びましたが、安永九年(一七八〇年)には八十四輌もの地車が宮入りした記録があります。現在では、一輌だけ残った三ツ屋根地車が渡御列に御奉仕しています。

(※注3)江戸時代には、氏子・崇敬者の仕立てた数多の船が、舳先(へさき)に御迎人形を立て、意匠を競って船体を飾り立て、御旅所へ御迎えの船列を整えた。昭和十二年(一九三七年)の船渡御列は、二百艘に達したというが、現在は警備の都合もあり、約百艘に制限している。

 昭和二十八年(一九五三年)、地盤沈下により橋桁が下がって船列の航行に支障が生じたために、それまでとは逆方向に大川を遡行するというコースの大変更を行い、現在に至っている。

(※注4)このように、神は短い旅をするのだ。宵宮(御旅所)から本宮(天満宮)への旅である。神が旅することをお渡り・渡御という。神を行宮でお迎えし、祭場へとお連れすることこそが本来の「渡御」である。

 普通の祭りでは、地上に降りた神は馬に乗って移動するが、それが天神祭では船なので、船渡御となるのである(現在はこのお迎えの船渡御は失われ、船渡御と言えばもっぱら二度目の「還御」にのみ用いられている)。

 神が来て祭りが始まり、神が去ると祭りが終わる。これが祭り本来の始まりと終わりなのである。


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◆◇◆大阪天満宮と天神祭、天神祭の流れ(2):本宮祭

(4)、翌二十五日の十四時、本宮の本殿で夏大祭が斎行され、菅原道真公の御神霊を御鳳輦(ごほうれん)に遷し、天満宮から船着場の天神橋までの約四キロメートルを、催太鼓を先頭に約三千人の渡御列が陸渡御(※注2)する。やがて夕焼けに川面が染まる頃、船渡御が始まる。そして渡御列は次々に船に乗り込む。

(5)、同日の十八時、御神霊を乗せた御鳳輦(ごほうれん)などの奉安船を中心に、各講社の供奉船が取り囲んで天神橋から大川を遡って行く。一方、川上の飛翔橋からは奉安船を迎えるための奉拝船が下って行く。双方合わせて百隻あまりだ(※注3)。

 大川の中流に差し掛ると、御鳳輦船(ごほうれん)では厳粛に水上祭が始まる。一方、川の中ほどに固定された舞台船では、厳かな神楽や多彩な伝統芸能が上演され、天神祭囃子が天に届けとばかりに鳴り響きく。前日から堂島川・大川・道頓堀川などを鉦や太鼓を打ち鳴らして漕ぎ回っていたドンドコ(どんどこ)船の若衆の威勢のいい掛け声が祭りムードをかきたてる。

(6)、同日の二十時、大川の両岸に並ぶ八十基の衛士(えじ)篝の火が水面を照らし、二千発あまりの仕掛け花火や打ち上げ花火が夜空を華やかに彩り、照明で浮かび上がる大阪城をバックに、百隻あまりの渡御船が進み、祭りは最高潮に達する。

 三時間あまりの船渡御が済み、奉安船・供奉船が船着場に到着、宮入りが始まる。シンガリを務めた玉神輿が、待ち構えていた催太鼓と次々に「大阪じめ」で手打ちするのは二十二時頃となる。そして本殿では還御祭(かんぎょうさい)が斎行され、熱く燃えた二日間の幕を閉じる(※注4)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注2)神様に氏地の平安を御覧いただこうと、氏子たちが御迎えの行列を組んだのが陸渡御・船渡御の始まりです。陸渡御列の中心は、 神霊を奉安する御鳳輦(ごほうれん=御守護神様が御乗りになられた御車)ですが、この前後を催太鼓や神輿(みこし)、神具、牛車、旗、鉾などが供奉して氏地を巡回し、天神橋北詰めの乗船場まで進みます。かつての氏地各町では、地車(だんじり)を曳いて神様の渡御を悦びましたが、安永九年(一七八〇年)には八十四輌もの地車が宮入りした記録があります。現在では、一輌だけ残った三ツ屋根地車が渡御列に御奉仕しています。

(※注3)江戸時代には、氏子・崇敬者の仕立てた数多の船が、舳先(へさき)に御迎人形を立て、意匠を競って船体を飾り立て、御旅所へ御迎えの船列を整えた。昭和十二年(一九三七年)の船渡御列は、二百艘に達したというが、現在は警備の都合もあり、約百艘に制限している。

 昭和二十八年(一九五三年)、地盤沈下により橋桁が下がって船列の航行に支障が生じたために、それまでとは逆方向に大川を遡行するというコースの大変更を行い、現在に至っている。

(※注4)このように、神は短い旅をするのだ。宵宮(御旅所)から本宮(天満宮)への旅である。神が旅することをお渡り・渡御という。神を行宮でお迎えし、祭場へとお連れすることこそが本来の「渡御」である。

 普通の祭りでは、地上に降りた神は馬に乗って移動するが、それが天神祭では船なので、船渡御となるのである(現在はこのお迎えの船渡御は失われ、船渡御と言えばもっぱら二度目の「還御」にのみ用いられている)。

 神が来て祭りが始まり、神が去ると祭りが終わる。これが祭り本来の始まりと終わりなのである。


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2006年07月25日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十五)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十五)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、八坂神社の起源(2)

 「祇園社」自身は、貞観十八年(八七六年)に南都の僧円如(一説には、常住寺の僧)が播磨国「広峯」(※注2)に祀られていた天竺の祇園精舎の守護神であった「牛頭天王(ごずてんのう)」を八坂郷の樹下(現在地)に移した「祇園堂」が始まりとされている(※注3)。牛頭天王が素戔嗚尊(すさのおのみこと)になって現れたともいわれている。

 平安時代初期の元慶年間(八七七-八八四)、摂政・藤原基経(もとつね)がこの地に精舎・「観慶寺感神院」を建て、境内に本殿・「祇園天神堂」を設けた(承平四年・九三四年、「感神院社壇」を建立したとも伝えている)。

 しかし、この神社が京の都人と深い関係をもち、規模が大きくなるのは何といっても「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)(のちの祇園祭)」が始まってからだ。「祇園御霊会」の成立は貞観十一年(八六九)とも天禄元年(九七○)ともいわれている。

(※注1) 八坂神社という社名は、意外と新しく、慶応四年=明治元年(一八六八)三月の神仏分離令により、その五月、「東山の八坂郷にこれあり候ふ感神院祇園社、今度八坂神社と称号相改め候ふ」と布告されたことによる(『太政類典』。

 このとき祭神名も、仏教的・道教的な牛頭天王(ごずてんのう)・婆利女・八王子から、純神道の(神速)素盞嗚尊(かむはや・すさのおのみこと)・櫛稲田姫(くしなだひめ)・八柱御子命(はしはしらのみこのみこと)に改称された。

 明治以前は、「感神院祇園社」ないしは単に「祇園社」と呼ばれてきた。だから、京都の人々は、今でも親しみ見込めて“祇園さん”と呼ぶ。それが、京都東山の八坂郷にあるところから、正式には「八坂神社」と称されることになったのだ。

(※注2) また、正史の『三代実録』貞観八年(八六六)七月十三日条に「播磨国の無位速素戔嗚尊神・・・従五位下を授く」とみることができるので、播磨に貞観以前より素戔嗚尊神を祀る神社があったことは確かなようである。それが広峯社(現姫路市内)であったようだ。

 さらに、もと、北白川にあった東光寺の鎮守社である東天王社(現在、京都市左京区岡崎東天王町の岡崎神社)は、『改暦雑事記』(室町後期の成立)によると、貞観十一年、播磨から牛頭天王(ごずてんのう)を勧請して祀ったと伝えられている。

(※注3) 今日の八坂神社に直接に繋がる社祠ができたのは、平安時代に入ってからのようだ。その根拠は、鎌倉末期頃も成立とみられる『社家条々記録』に、「当社草創の根元は、貞観十八年、南都の円如上人、始めてこれを建立す。これ最初の本願主なり。」とあり、また同じ頃の『二十二社註式』(吉田家伝来の記録類には、「牛頭天王は、初め播磨の明石浦に垂跡して広峯に移り、その後北白川の東光寺に移り、その後、人皇五十七代陽成院の元慶年中、感神院に移る」とあり、さらに平安末期か鎌倉初期の『伊呂波字類抄』には「祇園・・・貞観十八年、八坂郷の樹下に移し奉る」と記されている。


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2006年07月25日

◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(二)




◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(二)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、天神祭の流れ(1):宵宮祭

(1)、天神祭のクライマックスが船渡御である。本宮の夜、篝火(かがりび)が水面に映え、花火が夜空を彩る、水の都の火と水の祭典が天神祭だ。

 大阪の夏祭りといえば天神祭、七月二十四日の宵宮・二十五日本宮の二日間にわたって行なわれ、東京の神田祭・京都の祇園祭と共に日本の三大祭の一つとされている。祭りは「鉾流神事」で幕が上がる。

(2)二十四日の朝、七時半頃より本殿にて宵宮祭を斎行。八時半すぎ、白木の神鉾を手にした神童や供奉人、約二百人の行列が天満宮の表門を出発し、旧若松町浜の斎場へと向かう。

(3)、同日の九時(夏越祓いの神事の後)、鉾流橋畔で神鉾を持った神童が、神職と共に斎船(いわいぶね)で堂島川へ漕ぎ出し、龍笛の調べの流れる中、船上から神童の手によって神鉾(※注1)(※注2)(※注3)が流され、天神祭の無事と安全が祈願される。

 十四時、六人の願人が催し太鼓に上がり重く太い音を打ち出しす。本殿には、各講の人々が次々にお祓いを受けに入って来くる。その度に催太鼓、地車と手打ちが繰り返される。

 お祓いが一段落した十六時過ぎ、太鼓は地面に降ろされ、太鼓の下に丸太を敷いて、シーソーのように揺らしながら叩く。これは「唐臼(からうす)」というやり方です。この後、太鼓は氏地巡航に出発する。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 鉾流神事:大阪天満宮鎮座の翌々年の天暦五年(九五一年)に鉾流神事が始まったと伝えられている。これは社頭の浜から神鉾を流し、その漂着した地を斎場と定めて、そこに神様を御迎えする神事である。

 鉾流神事は、 鉾に託して「穢(けが)れ」を祓(はら)う(京都・祇園祭の鉾と同じ)とともに、年に一度、神様が氏地を巡見されるという意味合いも持っている。

 この神様のお出ましを奉祝するために「天神祭」がはじめられたのだ。ところが、寛永二十一年(一六四四年)の還御後は、常設の斎場(御旅所)が設けられたため、鉾を流す必要がなくなり、神事は途絶えてしまう。しかし、昭和五年(一九三〇年)に至って鉾流神事が復活され、現在も古式ゆかしく斎行されている。

(※注2) 鉾流神事は鉾流しで神が降りる場所を特定し、そしてそこへお迎えに行く神事である。それが「宵宮」であり、神迎えの儀式なのだ(これが祭りの始まりである)。

 本来一日は夜から始まり、しかも夜は「神の時間」であった。そうしたことから、神をお迎えするのは夜ということになる。夕闇の訪れとともに、祭りは始まるのだ。これが「宵」宮の本来の意味である。

 神は宵に本宮ではなく、鉾が流れ着いた所に降りる(神はいつも同じ所には降りるとはかぎらない。だから毎年祭りの都度、鉾を流し、その時々の神意をお伺いしたのだ)。

(※注3) 鉾流神事は天神祭以前の神事に由来するともされ、「穢れの祓え流し」の儀式だったと考えられている。もっとも、祓え流しには人形(ひとがた)が形代(かたしろ。ケガレを移す身代り)として使われていた。

 その人形や形代は、下流へ、海へと流されていったんのである。そしてその海は常世へと至った(大祓え祝詞)。常世はまた、神のいる所でもある。古式では、鉾流しは旧六月一日に、六月二十五日に船渡御が行われた。


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2006年07月24日

◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(一)




◆天神祭(大阪天満宮)と菅原道真の謎(一)

◆◇◆大阪天満宮と天神祭、大阪の夏祭りといえば天神祭

 大阪の夏祭りといえば天神祭、七月二十四日の宵宮・二十五日本宮の二日間行なわれ、東京の神田祭・京都の祇園祭と共に日本の三大祭の一つとされている。大阪天満宮の天神祭は、一千余年の歴史を受け継ぐ、厳粛な神事と劇的な祭事が織り成す、日本最大の「火と水の祭典」だ。

 天神祭には宵宮祭(前日祭で、今は七月二十四日)と本宮祭(同二十五日)とあるが、これら二日を合わせて一つの祭りで、宵宮祭のメイン・イベントは「鉾(ほこ)流し神事」(※注1)であり、本宮祭のメイン・イベントは「船渡御」(ふなとぎょ)(※注2)である。

 本宮祭の船渡御(ふなとぎょ)では、例年大阪市北区の大川を約百隻の船が巡行する。午後六時頃、天神橋と上流の飛翔橋の二手から、約一万人が乗船して船が出ていき、船がすれ違うたび、にぎやかに手じめの「大阪じめ」が交わされ、祭りを盛り上げるそうだ。
 フィナーレには、千六百発の奉納花火が打ち上げられ、「火と水の祭典」を飾る。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 鉾流神事:当宮鎮座の翌々年の天暦五年(九五一年)に鉾流神事が始まったと伝えられている。これは社頭の浜から神鉾を流し、その漂着した地を斎場と定めて、そこに神様を御迎えする神事だ。

 鉾流神事は、 鉾に託して「穢(けが)れ」を祓(はら)うとともに、年に一度、神様が氏地を巡見されるという意味合いも持っている。この神様のお出ましを奉祝するために「天神祭り」がはじめられたのだ。

 ところが、寛永二十一年(一六四四年)の還御後は、常設の斎場(御旅所)が設けられたため、鉾を流す必要がなくなり、神事は途絶えてしまった。しかし、昭和五年(一九三〇年)に至って鉾流神事が復活され、現在も古式ゆかしく斎行されている。

(※注2) 船渡御:江戸時代には、氏子・崇敬者の仕立てた数多の船が、舳先(へさき)に御迎人形を立て、意匠を競って船体を飾り立て、御旅所へ御迎えの船列を整えた。

 昭和十二年(一九三七年)の船渡御列は、二百艘に達したというが、現在は警備の都合もあり、約百艘に制限している。昭和二十八年(一九五三年)、地盤沈下により橋桁が下がって船列の航行に支障が生じたために、それまでとは逆方向に大川を遡行するというコースの大変更を行い、現在に至っている。


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2006年07月24日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十四)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十四)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、八坂神社と祇園祭

 四条通を鴨川を越えてまっすぐ東へ、東山通に突き当たった正面に見える赤い楼門が八坂神社の西門で、この場所を京都の人々は「祇園石段下」と呼ぶ。

 八坂神社は、江戸時代まで「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれてたが、明治の「神仏分離令」によって仏教的な色合いが排除され、土地の旧称に従って「八坂神社」(※注1)と改称された。しかし、京都の人々は以前の通り、普通は「祇園さん」と呼んで親しんでいる。

 八坂神社の夏祭りといえば「祇園祭」だが、こちらも明治維新の神仏分離令により、「祗園御霊会」(※注2)は仏教色を薄めて「祇園祭」と称されることになった。また、明治十年(一八七七年)、旧暦六月の七日と十四日であった祭日が、新暦七月の十七日(前祭)と二十四日(後祭)に固定された。

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、八坂神社の起源(1)

 八坂神社の創立については、『八坂郷鎮座大神之記』に「斉明天皇二年(六五六)、高麗から来た調進使の伊利之(いりの)が新羅国の牛頭山(ごずさん)にいます須佐之男命の御魂をもたらして八坂に祀ったという記述が『八坂社旧集録』に引用として記されてる。

 このことについては、『日本書紀』神代紀の一書に「素戔嗚尊・・・新羅の国に降到りまして曾尸茂梨(そしもり)の処に居します」『日本書紀』神代紀の一書には「素戔嗚尊・・・新羅の国に降到りまして曾尸茂梨(そしもり)の処に居します」とあり、このソシ・モリは韓語漢で牛・頭を意味するという。八坂神社は、七世紀斉明天皇の頃に開かれ、社殿は天智天皇の頃に造られたとされているが、多少疑問が残る。

(※注1) 八坂神社という社名は、意外と新しく、慶応四年=明治元年(一八六八)三月の神仏分離令により、その五月、「東山の八坂郷にこれあり候ふ感神院祇園社、今度八坂神社と称号相改め候ふ」と布告されたことによる(『太政類典』。

 このとき祭神名も、仏教的・道教的な牛頭天王(ごずてんのう)・婆利女・八王子から、純神道の(神速)素盞嗚尊(かむはや・すさのおのみこと)・櫛稲田姫(くしなだひめ)・八柱御子命(はしはしらのみこのみこと)に改称された。

 明治以前は、「感神院祇園社」ないしは単に「祇園社」と呼ばれてきた。ですから、京都の人々は、今でも親しみ見込めて“祇園さん”と呼ぶ。それが、京都東山の八坂郷にあるところから、正式には「八坂神社」と称されることになったのだ。

(※注2) 「祗園御霊会」は、遡れば、すでに「祇園社(天神堂・感神院)」創立以前の貞観十一年から八坂の地で行われており、それを機縁として「祇園社(天神堂・感神院)」が移されたとも考えられる。しかし、京内に「御旅所」を設けて神幸祭・還幸祭を行うようになったのは、約一世紀後の天延二年からだ。

 しかも、その翌年、円融天皇が御願報賽のため、奉幣の勅使を遣わした。これにより、「祗園御霊会」は「官祭」になったと考えられる。

 「祗園御霊会」は神仙苑における「御霊会」が政争に敗れて誅された「怨霊=御霊」に対して行われたが、八坂における「祗園御霊会」は「怨霊=御霊」とは関係なく、むしろ古来の「道饗祭(みちあえさい)」「疫神祭」などのような、恐ろしい疫病を左右する疫神を鎮め慰めるものであったようだ。


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2006年07月23日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十三)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十三)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)と牛頭天王(ごずてんのう)

 祇園社(祇園御霊会)の祭神は「牛頭天王」(ごずてんのう)(※注1)とされているが、これも明治後スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)(※注2)に一本化され、八坂神社の祭神はスサノヲ命に改められた。スサノヲ命と牛頭天王は同体だということからである(同体化は、八坂神社創建の時点に遡る。社名も幾度も変わり実体を捉えるのは困難である。しかし、津島神社の同体化の経緯から探ることができそうだ)。

 妻神・子神である合祀の女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちも、クシナダ姫と八柱の御子神とに変更された。女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちは、元々は、道教の神々であった。頗梨采女は「歳徳神」であり八王子は「大将軍」などの八方位神であったのである。

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、スサノオ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)と牛頭天王はなぜ、牛の頭?

 インド仏教の祇園精舎の守護神・牛頭天王は、中国に渡り、民間信仰の道教と習合する。そして、牛頭天王は、道教の冥界の獄卒となる(もともとは「地獄」の獄卒)。

 その他にも、道教と習合した仏教には、馬頭羅刹(めずらせつ)や閻羅王(閻魔)も登場することになる。その牛頭天王・馬頭羅刹が日本に伝来すると、それぞれ牛頭天王・馬頭観音(ばとうかんのん)へと変わっていくのだ。そこには、農耕文化と天神信仰との関わりがある。

 天神信仰では、農耕の際、雨乞いの祭りをするのだが、そのときに犠牲を捧げるのだそうだ。それが牛や馬であった。牛・馬は家畜というよりも、もとは犠牲の動物だったのかもしれない。そうしたことから、牛・馬は神社と深い因縁があるようだ(「絵馬」は元来、馬の犠牲の名残である。京都では祈雨止雨の祈祷の際、馬が奉納された)。

 古くは、「祇園社」では、牛を祭って天神の怒りを鎮め、疫病を防止しようとした。また、「牛」と菅原道真公(丑年生まれ)の関係も天神信仰に少なからずあるのかもしれない(「菅原道真の謎、怨霊伝説から天神信仰へ」を参照)。

(※注1) 牛頭天王(天竺の牛の頭に似た「牛頭山にいたと伝えられ、そこにあった栴檀が熱病に効くところから、疫病などを防除すると信じられた)は別名「武塔天王」(武装して手に塔を捧げ持つ毘沙門天と同体異名とされる)とされるが、牛頭天王=武塔天王は、スサノオ命(須佐之男命・素盞嗚尊)であると見なす所伝が古くからある。

(※注2) 八坂神社の創立については、『八坂郷鎮座大神之記』に「斉明天皇二年(六五六)、高麗から来た調進使の伊利之(いりの)が新羅国の牛頭山(ごずさん)にいます須佐之雄尊の御魂をもたらして八坂に祀ったという記述が『八坂社旧集録』に引用として記されている。

 このことについては、『日本書紀』神代紀の一書に「素戔嗚尊・・・新羅の国に降到りまして曾尸茂梨(そしもり)の処に居します」とあり、このソシ・モリは韓語漢で牛・頭を意味するという。


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2006年07月22日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十二)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十二)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)と牛頭天王

 スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)はその神威(霊威)の強大さからなのか(古代の人は、『記・紀』神話の荒れすさぶる神・スサノヲ命が、追放され辛苦を重ねた末、心を清めて、この世を救う善神・英雄神となるスサノヲ神話を通して、スサノヲ命・須佐之男命・素盞嗚尊に威力のある神、疫病防除の霊験を持つ神と信じたのであろう)、牛頭天王(疫神=疫病払いの神)と習合(同体化)する。

 同体化は、八坂神社創建(※注1)の時点に遡りる(もしかすると、津島神社の同体化の経緯から探ることができそうだ)。スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)このように疫神(疫病払いの神)・農耕神・雷神・水神として崇拝されていくのである。

 八坂の地では、古くから八坂氏(※注1)が農耕守護の「天神」(雷神)を祀っていた(古くは、「祇園社」では、牛を祭って天神の怒りを鎮め、疫病を防止しようとした)。

 しかし、平安京の成立により人口の急増をみて疫病流行などの恐れが多くなり、そこで、それを防ぎ除くために、貞観十一年頃、牛頭天王(素戔鳴尊神)が播磨の広峯社(現姫路市内)(※注2)からいったん北白川(東天王社)へ勧請し、それから間もなく(貞観十八年)、南都の僧(一説によると、常住寺十禅師)円如が八坂の現在地に堂宇を建て、そこへ牛頭天王(素戔嗚尊神)を移し祀ったとされている。

 八坂神社は社名も幾度も変わり、その実体を捉えるのは困難だ。雨乞いなどの天神信仰、疫病祓い、怨霊鎮めの御霊会、修験道や陰陽道などあらゆる信仰が混淆していくうちに、名に負う祇園精舎の守護神・牛頭天王(※注3)が主祭神になっていったものと思われる。

(※注1) 八坂の地の八坂郷については、『新撰姓氏録』の山城国諸蕃(渡来人)条に「八坂造(やさかのみやつこ)は狛(こま)国人の留川麻乃意利佐(るかまのおりさ)より出づるなり」と記され、当地には狛=高麗(こま・高句麗)から渡来した人々が「八坂造」となり、勢力を張っていたとみられている。

 八坂神社の社伝によると、斉明天皇二年(六五六)高麗の調度副使伊利之使主の来朝にあたって、新羅の牛頭山に坐す素戔嗚尊を祀ったことに始まると伝えている。伊利之(いりの)は『新撰姓氏禄』によると八坂造の祖である。

 このことについては、『日本書紀』神代紀の一書に「素戔嗚尊・・・新羅の国に降到りまして曾尸茂梨(そしもり)の処に居します」とあり、このソシ・モリは韓語漢で牛・頭を意味するという。

(※注2) 正史の『三代実録』貞観八年(八六六)七月十三日条に「播磨国の無位速素戔嗚尊神・・・従五位下を授く」とみることができるので、播磨に貞観以前より素戔嗚尊神を祀る神社があったことは確かなようだ。それが広峯社(現姫路市内)であったようである。

 さらに、もと、北白川にあった東光寺の鎮守社である東天王社(現在、京都市左京区岡崎東天王町の岡崎神社)は、『改暦雑事記』(室町後期の成立)によると、貞観十一年、播磨から牛頭天王(ごずてんのう)を勧請して祀ったと伝えられている。

(※注3) インド仏教の祇園精舎の守護神・牛頭天王は、中国に渡り、民間信仰の道教と習合する。そして、牛頭天王は、道教の冥界の獄卒となる(もともとは「地獄」の獄卒)。

 その他にも、道教と習合した仏教には、馬頭羅刹(めずらせつ)や閻羅王(閻魔)も登場することになる。その牛頭天王・馬頭羅刹が日本に伝来すると、それぞれ牛頭天王・馬頭観音(ばとうかんのん)へと変わっていくのだ。そこには、農耕文化と天神信仰との関わりがある。


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2006年07月20日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十一)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十一)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)と馬頭(駒形)

 旧上久世村の氏神である綾戸国中神社(※注1)の御神体の駒形(馬頭)は、スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の愛馬「天幸駒」の頭を自ら彫刻して、新羅に渡海の前にスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の形見として遣わしたとされている。祇園祭には稚児が駒形(※注2)の御神体を胸に奉持して(久世駒形稚児)乗馬で供奉する。

 天神信仰では、農耕の際、雨乞いの祭りをするため、牛や馬を犠牲として捧げたそうだ。そうしたことから、牛・馬は神社と深い因縁がある(「絵馬」は元来、馬の犠牲の名残だ。京都では祈雨止雨の祈祷の際、馬が奉納されたそうである)。古くは、「祇園社」では、牛を祀って天神の怒りを鎮め、疫病を防止しようとした。

(※注1) 上久世という八坂からは遠く離れた地から、祇園祭の重要な稚児が出るのはなぜであろうか。またその氏神である綾戸・国中神社と祇園社の関係はどのようなものであったのであろうか

 史料によれば、綾戸社は近世初期には「祇園駒之社」ともよばれ、現在の駒頭はもともと綾戸社と深い関係のあるものであり、また同時にこの駒頭をめぐる信仰が広く流布していたことが窺える。

 また、近世の史料に「上久世駒形神人」の名が出てくることから、近世初頭には今日と同様に上久世の人々が祇園祭の神幸祭と還幸祭に奉仕していたことは確かであったようである。

 また平安時代末期に書かれたという『年中行事絵巻』の中に、駒頭を胸に抱き、馬に乗った稚児が祇園御霊会の御輿に供奉する姿が描かれていることから、少なくとも平安時代末期には、祇園会に駒形稚児らしき存在が関係していたがわかる。

(※注2) 駒形と言うのは、稚児が首から掛けている馬の首の形をした木製の物である。この駒形を首に掛けて騎乗した時から綾戸国中神社の祭神の化身とみなされた。

 八坂神社の神と同格の神の化身であるから、なんびとたりとも許されない騎乗のまま境内に入り、本殿にもそのまま乗りつける事が出来る。(この参代の仕方は長刀鉾の「お稚児さん」にも許されていない)平安時代末の「年中行事絵巻」にも駒形稚児が描かれているように、初期からその存在が確認されている。


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2006年07月19日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(十)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、頗利采女(はりさいにょ)=少将井殿と聖水信仰

 綾戸国中神社が平安時代から祇園御霊会と深く関わり、御輿渡御の際、「久世駒形稚児」として木製の馬頭(旧上久世村の氏神である綾戸国中神社の御神体の駒形)を胸に抱き、馬に乗って御輿の渡御に奉仕する。それは祇園社の主祭神である牛頭天王(ごずてんのう)の后とされている「頗利采女(はりさいにょ)」、後に「少将井殿」と呼ばれるようになった神をめぐる信仰と深く関わってるそうである。

 御輿渡御の御旅所が昔は二箇所、そのうちの一つが少将の井(少将井殿)であった。「少将井殿」とあるように、「井」すなわち「水」をめぐる信仰とも深い関係があるとされている。

 その御旅所の井戸の上に御輿渡御の御輿(神輿)がドンと置かれていたという言い伝えからもわかるように、夏祭りとしての祇園会における「聖水信仰」「水神信仰」に繋がるとされている。

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、牛頭天王(ごずてんのう)とスサノヲ命(須佐乃男命・素盞鳴尊)

 祇園社(祇園御霊会)の祭神は「牛頭天王」(ごずてんのう)とされているが、これも明治後スサノヲ命に一本化され、八坂神社の祭神はスサノヲ命に改められた。スサノヲ命と牛頭天王は同体だということからである(同体化は、八坂神社創建の時点に遡る。社名も幾度も変わり実体を捉えるのは困難である。しかし、津島神社の同体化の経緯から探ることができそうだ)。

 妻神・子神である合祀の女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちも、クシナダ姫と八柱の御子神とに変更される。女神・頗梨采女(はりさいにょ)と八王子たちは、元々は、道教の神々であった。頗梨采女は「歳徳神」であり八王子は「大将軍」などの八方位神であっただ。

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、牛頭天王(ごずてんのう)はなぜ、牛の頭?

 インド仏教の祇園精舎の守護神・牛頭天王は、中国に渡り、民間信仰の道教と習合する。そして、牛頭天王は、道教の冥界の獄卒となる(もともとは「地獄」の獄卒)。

 その他にも、道教と習合した仏教には、馬頭羅刹(めずらせつ)や閻羅王(閻魔)も登場することになる。その牛頭天王・馬頭羅刹が日本に伝来すると、それぞれ牛頭天王・馬頭観音(ばとうかんのん)へと変わっていくのだ。そこには、農耕文化と天神信仰との関わりがある。

 天神信仰では、農耕の際、雨乞いの祭りをするが、そのときに犠牲を捧げるのだそうだ。それが牛や馬であった。牛・馬は家畜というよりも、もとは犠牲の動物だったのかもしれない。そうしたことから、牛・馬は神社と深い因縁がある(「絵馬」は元来、馬の犠牲の名残である。京都では祈雨止雨の祈祷の際、馬が奉納されたそうだ)。

 古くは、「祇園社」では、牛を祭って天神の怒りを鎮め、疫病を防止しようとしたのである。また、「牛」と菅原道真公(丑年生まれ)の関係も天神信仰に少なからずあるのかもしれない(「菅原道真の謎、怨霊伝説から天神信仰へ」を参照)。


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2006年07月18日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(九)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(九)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、綾戸国中神社(京都市南区久世上久世町446)

 綾戸国中神社は、昔は綾戸(あやと)宮と国中(くなか)宮の二社に別れていたが、現在は一社殿とし、向かって左の御扉に綾戸宮、右の御扉に国中宮を祀る。御祭神は、綾戸宮が大綾津日神(おほあやつひのかみ)・大直日神(おほなほびのかみ)・神直日神(かみなほびのかみ)で、国中宮がスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)である。

 大綾津日神、大直日神、神直日神を御祭神とする綾戸宮は、第二十六代継体天皇十五年に綾戸大明神として三柱の神を勧請され、六十二代村上天皇天暦九年に綾戸宮と改められ、上久世の里の産土神として古くより氏子が崇拝してきた。

 スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)を御祭神とする国中宮は、神代の頃、午頭天皇(ごずてんのう)=スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)が山城の地、西の岡訓世の郷が一面湖水と化した時、天から降り、水を切り流し国となし、その中心に符を遣わしたとされてる。

 その符とはスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の愛馬「天幸駒」の頭を自ら彫刻して、新羅に渡海の前にスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の形見として遣わしたとされた。この形見の馬の頭(駒形)が国中宮の御神体として祀られている。

 夏の祇園祭には稚児が駒形の御神体を胸に奉持して(久世駒形稚児)乗馬で供奉する。七月十三日:稚児社参祈願(祇園祭社参祈願祭)、七月十七日:稚児供奉祈願(祇園祭神幸祭供奉祈願祭)、七月二十四日:稚児供奉祈願(祇園祭還幸祭供奉祈願祭)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、綾戸国中神社は高句麗系か?

 山城国の乙訓郡大山崎の南部に高句麗系の移住民らが開発したといわれる「高麗田」がある。彼らが淀川を船で溯って山崎津に上陸しこの土地を開墾したのがその由来とされている。近くの天王山中腹の大念寺の過去帳には、高麗屋の屋号の遺名が散見する。

 天王山の中腹には橘氏の氏神を祀る酒解神社(自玉手祭来酒解神社=たまてよりまつりきたるさかとけじんじゃ、乙訓地方で最も古い神社、祭神:山崎神・橘氏の主神)があり、その後「天神八王子社」(祭神:大山祇神、素戔鳴尊、他九神)が祀られて「山崎天王社」と称され、山崎山と称されていたこの山も「天王山」と呼称されるようになったそうだ。

 高句麗系の移住民らが奈羅(現在の八幡町上奈良、下奈良)に定住、繁栄した(高麗田の対岸)そうである。樫原廃寺の東南に位置する、南区久世上久世町の綾戸国中神社の祭神はスサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)=牛頭天王だ。

 いまも祇園祭では綾戸国中神社の駒形稚児(駒形=馬の頭、駒=高麗?)が祇園社・八坂神社(高句麗系の八坂造の創建?、祭神:牛頭天王=素盞嗚尊)(※注1)に乗り入れ、神前に参拝して初めて神輿の渡御がはじまる慣例になっている。このことは、綾戸国中宮神社の周辺にも多くの高句麗系の移住民が居住していたとも考えられるのだが?

(※注1) 八坂の地の八坂郷については、『新撰姓氏録』の山城国諸蕃(渡来人)条に「八坂造(やさかのみやつこ)は狛(こま)国人の留川麻乃意利佐(るかまのおりさ)より出づるなり」と記され、当地には狛=高麗(こま・高句麗)から渡来した人々が「八坂造」となり、勢力を張っていたとみられている。

 八坂神社の社伝によると、斉明天皇二年(六五六)高麗の調度副使伊利之使主(いりしおみ)の来朝にあたって、新羅の牛頭山に坐す素戔鳴尊を祀ったことに始まると伝えている。伊利之(いりの)は『新撰姓氏禄』によると八坂造の祖だ。このことについては、『日本書紀』神代紀の一書に「素戔鳴尊・・・新羅の国に降到りまして曾尸茂梨(そしもり)の処に居します」とあり、このソシ・モリは韓語漢で牛・頭を意味するという。


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2006年07月17日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(八)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(八)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)の和御魂と荒御魂の合体

 八坂神社に普段鎮座している、スサノオ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)は和御魂(にぎみたま)で、神のやさしい穏やかな面を持つ神とされている。久世駒形稚児(※注1)が送り出す上久世の綾戸国中神社(あやとくなかじんじゃ)(※注2)の祭神も、スサノヲ命(須佐乃男命・素盞嗚尊)であるが、その荒御魂(あらみたま)と言って同じ神でも荒々しい烈しい面を持つ神といわれている。

 一年に一度その両方の神様がお会いになり、一つにならないと(合体しないと)祇園祭は成立しないといわれている。祭りの要となる重要な役割として、長い間上久世の地で受け継がれてきた。稚児には綾戸国中神社の氏子のなかの、八歳から十一歳の男子を対象として選ばれる。

(※注1) 駒形と言うのは、稚児が首から掛けている馬の首の形をした木製の物である。この駒形を首に掛けて騎乗した時から綾戸国中神社の祭神の化身とみなされている。

 八坂神社の神と同格の神の化身ですから、なんびとたりとも許されない騎乗のまま境内に入り、本殿にもそのまま乗りつける事が出来る(この参代の仕方は長刀鉾の「お稚児さん」にも許されていない)。平安時代末の「年中行事絵巻」にも駒形稚児が描かれているように、初期からその存在が確認されている。

(※注2) 上久世という八坂からは遠く離れた地から、祇園祭の重要な稚児が出るのはなぜであろうか。またその氏神である綾戸・国中神社と祇園社の関係はどのようなものであったのであろうか。
 史料によれば、綾戸社は近世初期には「祇園駒之社」とも呼ばれ、現在の駒頭はもともと綾戸社と深い関係のあるものであり、また同時にこの駒頭をめぐる信仰が広く流布していたことが窺える。

 また、近世の史料に「上久世駒形神人」の名が出てくることから、近世初頭には今日と同様に上久世の人々が祇園祭の神幸祭と還幸祭に奉仕していたことは確かであったようだ。

 また平安時代末期に書かれたという『年中行事絵巻』の中に、駒頭を胸に抱き、馬に乗った稚児が祇園御霊会の御輿に供奉する姿が描かれていることから、少なくとも平安時代末期には、祇園会に駒形稚児らしき存在が関係していたがわかる。


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2006年07月16日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(七)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(七)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、「駒形稚児」または「久世駒形稚児」

 「お稚児さん」(※注1)(※注2)といえば山鉾巡行の「くじ取らず」である長刀鉾が、しめ縄切りの模様が全国ニュースに流れたりして有名であるが、祇園祭の本来の意味から言えば、神事に欠かせない「お稚児さん」は「久世駒形稚児」である。

 あまり知られて無い「久世駒形稚児」であるが、こちらの「お稚児さん」は長刀鉾の「お稚児さん」より、さらに重要な意味を持つ。旧上久世村(現京都市南区上久世町)から祇園祭の神幸祭と還幸祭に各一名ずつ、二名が選ばれ、白馬に乗って神輿が三基あるうちの一基「中御座」の先導を努める(中御座の神輿の先導をする「お稚児さん」が「久世駒形稚児」である)。

 長刀鉾の「お稚児さん」は十万石の大名と同じ「正五位少将」の位を授かる。俗に「お位もらい」と呼び神の使いとしての資格を得る儀式だ。これは山鉾巡行の際、高い場所から身分の高い人を見下ろすための免罪符という考え方もある。

 ところが「社参の儀(お位もらい)」で八坂神社に参拝する長刀鉾の「お稚児さん」は馬から降りなければならないが、「久世駒形稚児」はまさに神の化身であるから、社参の際も決して馬から降りる事はない。ちなみに神社の境内は古来よりどんな身分の高い人であろうと騎乗が許されていなかった(「皇族下馬」)。

 また、古文書によると「ご神幸の七月十七日に久世の稚児の到着なくば、ご神輿は八坂神社から一歩も動かすことがならぬ。もしこの駒故なくしてお滞りあるときは必ず疫病流行し人々多いに悩む」と記されてる。

(※注1) 今日の祇園祭では、稚児が出るのは長刀鉾と綾傘鉾、および「久世駒方稚児」だけだ。特に長刀鉾の稚児は有名であり、七月十三日の八坂神社への「社参の儀」によって、それまでは普通の男の子が「五位少将」、十万石の大名に相当する位を授かる。

 長刀鉾の稚児は十七日の山鉾巡行で、四条通りに張られた注連縄を華麗な太刀さばきによって切るという大役を担っており、これは山鉾巡行の開始を告げる重要な儀礼として、毎年必ずテレビで放映される場面でもある。

(※注2) そもそも「稚児」とは、祭礼で神霊の依り代となる子ども意味し、神の代役としての重要な立場を担う存在である。稚児は本来は男女の区別はなく、女児が稚児を務める例もあるが、祇園祭では女人禁制が原則であり、特に山鉾巡行自体に女子の参加が禁じられているために、稚児も男児に限られている。

 なお今日でこそ長刀鉾以外のすべての鉾が人形の稚児を乗せるようになったが、かつてはどの鉾にも生き稚児が乗っていた。それがやがて種々の理由から生き稚児を廃して代わりに人形を乗せるようになっていっただ。

 その背景には、稚児は祭りに先立って相当期間、家族から離れて別火で炊いた食事をするなど、厳しい精進潔斎が求められ、また祭り当日は地面に直接足を触れさせないなどの特別な扱いを受けるため、希望者も減り、またその世話にも多大な労力と費用がかかることと、稚児が鉾から落ちて大怪我をしたりするなどの危険をともなうことなどの理由からだそうである。


スサノヲ(スサノオ)  

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2006年07月15日

◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(六)




◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(六)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、「神祭り」としての祇園祭、神幸祭と還幸祭

 豪華絢爛な山鉾巡行(※注1)は、いうならば祇園祭の「表」の顔であり、人々はそこにこの祭りの華やかさと豪華さに魅了され、平安絵巻が繰り広げられたハレの空間に酔いしれる。

 実は、これは八坂神社の神事ではなくて、各鉾町の町衆の祭りだ。八坂神社の祭りは別に、同時進行してるのである。メインは、神輿が八坂神社を出発する七月十七日の神幸祭と、還って来る七月二十四日の還幸祭だ。祇園祭は、約一月間かけて行われる長い祭りである。

 祇園祭は、山鉾とそれを取り巻く華やかなイメージのため、本来の神事が見落とされてしまっている。山鉾巡行の興奮が醒めやらぬ七月十七日夕刻、三基の御輿が八坂神社を出て、四条寺町の御旅所まで氏子区域を回る、いわゆる御輿渡御が行なわれる。

 七月十七日の神幸祭や七月二十四日の還幸祭は、「神祭り」としての祇園祭(本来の祇園祭)にとっては、山鉾巡行以上に重要な祭りであるはずなのだが、氏子以外の人たちにはほとんど意識されることなく、どちらかといえばひっそりと行なわれている。

 ましてこの御輿の渡御に、上久世から一人の稚児が奉仕することを知る者は少ないようだ。この稚児は、木製の駒頭を胸に抱いていることから、古くから「駒形稚児」「久世駒形稚児」(※注2)と呼ばれてきた。これらは人々からはあまり省みられることなく続けられてきたもので、まさに祇園祭の「本来の部分」といえる。

(※注1) 御輿渡御や「馬上十二鉾」と離れ、鉾衆や作り山などの練り歩きは町衆の「イベント」として神事から独立した性格を持ち始めた。室町時代中期頃から、「山鉾巡行」と、祇園社の神の「御旅所」への渡御という神事は互いに独立していく。

 このようにして古代の祇園会はすっかり姿を変えたが、疫神を慰めるために楽を囃したて、舞い踊るという行為とその意味は保たれ続ける。

 初期の山鉾は小規模で人が乗るという形ではなかったため、囃子方や舞方は鉾や作り山と一緒に練り歩いたのだと思われる。やがて中世末期から近世初期にかけて山鉾は巨大化し、鉾には車がつき、囃子方も乗り込むようになり、現在に近い姿になった。その背景には、京都の商人が財力を持ちはじめたことにある。

(※注2) 七月十七日の山鉾巡行が終わった夕刻、八坂神社を出発する御輿渡御に、上久世から一人の稚児が奉仕することを知る人は少ないのではないだろうか?。

 この稚児は木製の駒頭(馬の頭)を胸に抱いていることから、古くから「駒形稚児」とか「久世駒形稚児」と呼ばれてきた。この稚児は、旧上久世村の氏神である綾戸国中神社の御神体とされている木製の馬頭を胸に抱き、馬に乗って御輿の渡御に奉仕する。

 十七日の朝、上久世では村人から「お駒さん」とよばれて崇拝されている御神体の駒頭が入った櫃を、神社からその年の稚児を出す家に運び、床の間に安置する。やがて稚児は父親と綾戸国中神社の神主とともに、かつてから「中宿」と定められている祇園花見小路の原了廓家に向う。そこで御神体ははじめて櫃から取り出される。
 稚児はこの駒頭を首にかけ、中宿から騎馬で八坂神社に社参に向う。この時駒形稚児は騎馬のまま境内に入り、拝殿を三周して直接本殿に乗りつけるのだ。

 十万石の大名の格式を持つといわれる長刀鉾の稚児でさえ、境内前で下馬して徒歩で本殿に参拝するのに(「皇族下馬」)、駒形稚児は騎馬のまま本殿に乗りつけるというのは、まさにこの稚児がそれ相応の位を持ち、また祇園祭において非常に重要な役割を担ってきたことを物語っているといえる。


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