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2015年09月30日

■日本神話への誘い~日本の神々に出会う物語~【オオクニヌシの国造りと国譲り】





① 日本神話への誘い~日本の神々に出会う物語~【オオクニヌシの国造りと国譲り】
② 2015年10月02日(金)19:00~21:00
③ 京の癒し町家カフェ「満月の花」
〒600-8072 京都府京都市下京区
綾小路通堺町東入ル綾材木町206-1
https://www.facebook.com/events/1461817897453227/
⑤ 「なむぢ」
 日本各地の神話を「語り」と「音楽」で伝え、日本人としての素晴らしさを再確認することを目的に「なむぢが」デビューしました。
https://www.facebook.com/pages/なむぢ/222044304587164

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2015年第5回 語りかぐら in 京都・神話カフェ「満月の花」 2015年10月02日(金)19:00~21:00 京の癒し町家カフェ「満月の花」
 
◆日本神話への誘い~日本の神々に出会う物語~【オオクニヌシの国造りと国譲り】 

葦原中国(日本国)の基礎を作ったオオクニヌシに対して、高天原の神々は国譲りを要求。オオクニヌシは幽界の王となり退く。

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◇日時
2015年10月02日(金)19:00~21:00
終了後に同会場で懇親食事会をします。
◇場所
京の癒し町家カフェ「満月の花」
〒600-8072 京都府京都市下京区
綾小路通堺町東入ル綾材木町206-1
075-201-1125
阪急電車「烏丸」駅徒歩3分、地下鉄「四条」駅徒歩5分
◇地図
http://goo.gl/maps/ItFmF
◇料金
¥2,000(+別途月の花ドリンク代 当日支払)
◇定員
10名
◇参加申込み
https://www.facebook.com/events/1611304299087741/
◇Webサイト
http://namudi8.jimdo.com/
◇連絡先 
山本一男 susanowo8@gmail.com

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◆「2015年 語りかぐら・なむぢ」の年間スケジュール

4、アマテラスとスサノヲ
2015年7月開催 場所:京都四条烏丸「町家カフェ・月の花」
高天原でのスサノヲの乱暴な行為によってアマテラスは岩戸に身を隠してしまう。困り果てた八百万の神々は解決策を相談し、高天原をスサノヲを追放する。スサノヲは出雲の国へ降り、そこで出会ったクシナダヒメを救うためにスサノヲはヤマタノオロチを退治する。

5、オオクニヌシの国造りと国譲り 
2015年10月開催 場所:京都四条烏丸「町家カフェ・月の花」
葦原中国(日本国)の基礎を作ったオオクニヌシに対して、高天原の神々は国譲りを要求。オオクニヌシは幽界の王となり退く。

6、天孫降臨と日向三代 
2015年12月開催 場所:京都四条烏丸「町家カフェ・月の花」
葦原中国(日本国)の基礎を作ったオオクニヌシに対して、高天原の神々は国譲りを要求。オオクニヌシは幽界の王となり退く。

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◆「なむぢ」
 日本各地の神話を「語り」と「音楽」で伝え、日本人としての素晴らしさを再確認することを目的に「なむぢが」デビューしました。
https://www.facebook.com/pages/なむぢ/222044304587164

◆即興演奏 日向真(ひなたしん)
 京都在住。風鈴演奏家。円山公園公認尺八奏者。新熊野神社「申楽」能管奏者。
 いにしえから聖なる山と呼ばれる京都・東山の森に風鈴ハウス「風処(かぜどころ)」を構え、インスピレーションを受けて数多くの楽曲を発表。京都から日本の風鈴ミュージックを世界へ発信している。
 テレビや新聞などで全国的に知られる。
 健康雑誌「壮快」では魔法の音として過去13回紹介。
 日本各地の治療院で利用され支持をうけている。

◆神話の語り部・スサノヲこと山本 一男
 「日本」とは何か?「日本人」とは何か?が知りたくて、日本学、民俗学、宗教民族学などを中心に日本と日本人の原点と基層を調べて早20年が経つ。
 今を生きる多くの人たちの姿を見ると、日本の文化・歴史についてあまり関心が無いようで、多くを外からの情報に翻弄され刹那的に行動しているように見える。このような自らの拠り所を失い根無し草のよ うに漂うさまを見るにつけ、自らのアイデンティティをしっかりと見つめ直し、日本列島の自然と風土の中で作り出してきた日本独自な精神文化と日本人であることとを自覚すること が必要だと感じるようになった。
 また国際化が叫ばれて久しいですが、本当の意味で国際人になるためにも、自らことを自らの国のことをしっかり伝えることが出来て、はじめて国際人だと言えるのだと思う。
 特に日本の伝統・伝承・神話や地域に残る風習・祭り・行事などの背景(背後)のあるものは、豊かな森と水の日本列島という風土が醸し出した古代の人々の世界観(素朴な神々の世界観)の記憶だ。 実は今も地下水脈のようにつながり生き続けているのである。
 私たちは普段、こういう事(古代からの世界観)をまったく意識することなく生活している。しかし気付かなくとも、ほんとうは私たち日本人のものの見方や生き方を規定している「何か」があるのだ。
 こうした私たち日本人の意識の底に眠った記憶とは、太古の昔から今日に至るまで、連綿とつないできた貴重な精神の遺産であり、大自然に宿る日本人の 原風景でもある。
 実は私たち日本人とは、長い時間をかけてこのような古代から日本列島の自然(恵みと災害)とうまく折り合いをつけ、柔らかい関係を結び、共に生きることを選んだ民族が日本人なのだ。
 今一度、こうした日本人の知恵を魂を学んでみよう。
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【参加者の感想】
◇なむじさんの神話の語り。次元を超えるかのような、世界観に引き込まれました。神話の流れを聞いて、色々と神様の繋がりに腑に落ちるところがあり、興味深く聞き入りました。素敵な時間をありがとうございます。
◇絶妙な「間」を持たせた山本さんの語りと、幻想的で魂に響く日向さんの音楽・・・そしてクライマックスは衝撃の出雲王朝の秘。むなぢワールドに吸い込まれた時間でした。なんだか村上春樹作品の空気と似たものを感じたのは私だけ?
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タグ :日本神話


Posted by スサノヲ(スサノオ) at 11:27Comments(0)

2012年01月04日

◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(四)



◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(四)

正月というのは、元々は年の初めにあって神の来臨を仰ぎ、その年の五穀豊穣を祈る、地域ぐるみの「祭りの場」であった。人々にとっては実り豊かな一年であるかどうかは死活問題であっただけに、神の来臨を仰ぎ祭る、初詣の祈願は欠かせなかったのである。

しかし今日では、人々は新年の無病息災などを祈願するために参詣するようになる。「♪年の初めの ためしとて 終なき世の めでたさを 松、竹たてて 門ごとに 祝(いお)う今日こそ 楽しけれ ♪初日の光 さしいでて 四方に輝く 今朝の空 君が御影に 比(たぐ)えつつ つぎ見るこそ 尊とけれ」(※注1・2)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 一年のはじまりの日、つまり元日の朝、元旦は「明けましておめでとうございます」という挨拶とともにはじまるが、いったい何がめでたいというのであろうか?

それは、元日とはそもそも正月の満月の夜に、歳神(年神)をお迎えして、旧(昨)年の無事と豊作を感謝し、今年も同様であることを祈る日であったからである。

また、「年の初めのためしとて、終わりなき世のめでたさを・・・」という正月の歌がある。「ためし」は験しで、修験の験、効験の験である。「めでたさ」の「めでたい」は古語では「愛でたし」で、何かを称えたい、何か特別なことを褒めたいという格別の気分を表している。この正月の歌では「世(現在の世)」がめでたいと歌い上げる。それがいつのまにか正月挨拶の「お目出とう」になったという。つまり目が出るわけではなく、芽が出るのである。

中国ではめでたさのことを「福」といって、一陽来福を祝う。もともとは冬至の祝福であったものが、やがて春節(旧暦正月)を迎える行事に吸収されて行く。いずれにしても「めでたさ」は季節の節目に際し、宇宙や世界の秩序が更新され、自然の年齢も更新された新年の「世(現在の世)」を祝福する言葉であったのである。

本来旧暦の正月十五日がこの日にあたり、明治六年まで使われていた太陰太陽暦(天保暦)の名残りである。この暦制が太陽暦(グレゴリオ暦)に取って代わっても、この日に行なわれていた行事やしきたりは「小正月」として伝承され、左義長、どんど焼き、なまはげなどのさまざまな行事が今でも各地で催されている。

(※注2) 正月とは一年の一番初めの月のことをいうが、一般には年初の諸行事のことを指す。一月を正月と呼ぶのは「正」が年の初め、年の改まる意味であることに由来する。

また稲が実って一巡する期間をを「年」という(「稔(とし)」が豊穣を祈願する意味に通じることからです)。古くは正月は「ウラバンナ(盂蘭盆)」と対応するもので、半年ごとに祖霊を祀る大きな年中行事とされていた。

正月に迎える歳神(年神)は大きく分けて二つの性格を合わせ持っている。一つは豊作をもたらすの「田の神」の性格、もう一つは各家の「祖先の霊、祖霊」的性格である。

また正月の行事は地域によって違いがあり、元旦を中心とした「大正月」と、一月十四日・十五日を中心とした「小正月」に集中している。旧暦では正月(旧正月)を立春の頃としていたので、その始めを新月の朔日である大正月と満月の望の日の小正月とする二通りがあった訳である。

大正月には歳神(年神)や祖霊を迎える性格の行事が多く、小正月には五穀豊穣を願う農耕の予祝的行事が多く見られる。農業を営む人々にとって、太陽の運行と同時に月の満ち欠けも大切なもので、古くより予祝儀礼を年初の満月の日に行うことがなされていた。

新暦(太陽暦)採用後は満月と小正月の十四日・十五日が一致しなくなった為に、農家では小正月の意味がだんだんと薄れていってしまったようだ。現在一般に正月といえば大正月のことを指しますが、小正月を祝う風習が今でも盛んに行われている。

スサノヲ(スサノオ)

◆神社魅力プロデューサー
http://www.ustream.tv/recorded/19336205
◆スサノヲのブログ
http://www.susanowo.com/
◆日本の神話と古代史と日本文化(mixi)
http://mixi.jp/view_community.pl?id=508139
◆スサノヲとニギハヤヒの日本学 (livedoor)
http://blog.livedoor.jp/susanowo/
◆地域を幸せにするWebプロデューサー
https://www.facebook.com/susanowo8
◆神社魅力発信プロデュース「神社Web制作工房」
http://jinjaweb.com/


◆2012年 古事記編纂1300年記念

「なにごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに なみだこぼるる」

この言葉は、仏僧であった西行法師が伊勢神宮を参拝した際に詠んだとされる歌である。
自然崇拝を起源とする日本の神々は、目には見えない。

しかし八百万の神々は、神話の時代から今日に至るまで、時代とともに変化しながらも、さまざまな思想や宗教と宗教などと習合しながら、常に日本人の心に生き続けてきた。

2012年、現存する中では最古の歴史書「古事記(こじき・ふることぶみ)」が1300年を迎える。この「古事記」という書物には「国土の誕生について」「日本の神々について」「日本の歴史について」、「日本」と「日本人」のこの国のすべてのことが古代の人々の感性で語られている。

また、日本全国の神社で祀られてる「アマテラス」「スサノヲ」「オオクヌシ」などの神々の物語である「天の岩屋戸開き」「八岐大蛇退治」「稲葉の素兎」などがいきいきと描かれているのだ。

古代の人々が心に描いた世界観である「八百万の神々が今も生きる日の本の国の神々のものがたり」を知ることで、今一度「日本」と「日本人」のことを真剣に考えてみよう。いや、エンターテイメントとしても大変に面白い物語だ。この記念すべき年を機会に、ぜひ読んでみよう。

スサノヲ (スサノオ)  


Posted by スサノヲ(スサノオ) at 17:09Comments(0)スサノヲ(スサノオ)の日本学

2012年01月03日

◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(三)



◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(三)

 正月元旦の前日、つまり大晦日の夜を除夜という。実は古くから、この除夜から元旦(元旦の「旦」は地平線に日が昇った状態を表した文字なので、元旦は元日の朝あるいは午前中を意味し、歳朝=さいちょう、大旦=おおあしたとも呼んだ)にかけては寝てはいけないといわれてきた。

 なぜなら、正子(しょうし、夜の十二時)を過ぎたら、村の鎮守に参詣して実り豊かな新年を祈願するのが慣わしであったからである。

 それが、共同体や神社の発展とともに、初詣という「行事」として根付き、今日に至っているようである。(※注1・2・3)

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 正月の準備は十二月から始まる。「煤払い」や「門松迎え」「餅搗き」「年神棚」を設えたり、「おせち料理」の下ごしらえをするなど様々な準備をして年越しの夜を迎える。これが大晦日である。

 古くは日が暮れるのが一日の終わりと考えられていたので、正月の歳神(年神)祭りは大晦日の夕刻から始まるとされていた。

 身体を洗い清め、年神への供物をし、家族揃ってお節料理を食し、寝ることを忌しんで歳神(年神)を迎え神人交歓するのある。

 早朝には年男が汲んだ「若水」で洗顔したり、またお茶を入れ、雑煮を作って飲食し新たな年を祝う。また歳神(年神)に供えた餅の一部を年長者から家族に分配する。

 これが「年玉」であり、神の霊が籠もっているという。そして皆そろって一つ年を重ねるとされた。古くはこうして囲炉裏を囲んで家族揃ってお正月を迎えたのである。

(※注2) 大晦日は十二月の晦日のことで、一年の最後にあたるため大晦日と呼ばれている。「年越し」「年取り」「大年」「大つごもり」「おもっせい」とも呼ばれている。

 年越しのための様々な行事が各地で行われる。大晦日の食事は地域によって様々な伝承があり、この日の夜の食事が特別なものとされていたことが窺える。

 魚を用いた食事が多いようである。そばやうどんを食べる習慣は各地で見られ、 「年越しそば」とか「晦(つごもり)そば」と呼ばれている。そばには長いものを食べると長命になるという縁起担ぎの意もこめられている。

 また除夜は「除歳」「除夕」とも呼ばれる。旧年を除く意味で、大晦日の夜のことをいう。歳神(年神)を迎えるため、夜を徹する風習もある。

 寺では、百八つの除夜の鐘が撞かれる。「百八つ」は人間の煩悩の数だとされ、除夜の鐘はこの煩悩を消し去るのだそうだ。しんと静まり返った夜半に響く鐘の音は、来る年への新たな決意とともに、身のひきしまる思いがする。

(※注3) 初詣は除夜の鐘が鳴り終わってから元日に土地の氏神や神社仏閣に参詣することをいうが、元日に限らず松の内に年が明けてからはじめて参詣することをいう場合もある。 

 古くは一日の終わりが日没と考えられていたので、一年の終わりは大晦日の日没とされていた。大晦日の夜に社殿で徹夜をすることが各地でみられ、これを「年篭り」という。

 今日では一日の区切りは夜中の零時になり、そのため大晦日の夜に詣でる「除夜詣」と、年が改まって元日に詣でる「初詣」とが区別されるようになった。

 除夜に参詣してのち一度家に帰り、元旦になって再び参詣したり、大晦日の夜から元日になるまで神社にいることを「二年参り」と呼ぶところもあるそうだ。

 また若水とは元日の早朝にその年初めて汲む水のことで、「初水」「福水」とも呼ばれている。歳神(年神)に供え、正月の食事の支度や、洗顔にも用いる。

 若水を汲むことを「若水迎え」「若水汲み」といい、水道が普及するまでは各地で正月の儀礼の一つとして行われていた。 若水を汲むのは年男の役目とする所が多く、水を汲む場所は掘り井戸だが、井戸が掘られる前は川や泉であった。

スサノヲ (スサノオ)

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◆2012年 古事記編纂1300年記念

 「なにごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに なみだこぼるる」

  この言葉は、仏僧であった西行法師が伊勢神宮を参拝した際に詠んだとされる歌である。
自然崇拝を起源とする日本の神々は、目には見えない。

 しかし八百万の神々は、神話の時代から今日に至るまで、時代とともに変化しながらも、さまざまな思想や宗教と宗教などと習合しながら、常に日本人の心に生き続けてきた。

 2012年、現存する中では最古の歴史書「古事記(こじき・ふることぶみ)」が1300年を迎える。この「古事記」という書物には「国土の誕生について」「日本の神々について」「日本の歴史について」、「日本」と「日本人」のこの国のすべてのことが古代の人々の感性で語られている。

 また、日本全国の神社で祀られてる「アマテラス」「スサノヲ」「オオクヌシ」などの神々の物語である「天の岩屋戸開き」「八岐大蛇退治」「稲葉の素兎」などがいきいきと描かれているのだ。

 古代の人々が心に描いた世界観である「八百万の神々が今も生きる日の本の国の神々のものがたり」を知ることで、今一度「日本」と「日本人」のことを真剣に考えてみよう。いや、エンターテイメントとしても大変に面白い物語だ。この記念すべき年を機会に、ぜひ読んでみよう。

スサノヲ (スサノオ)
  


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2012年01月03日

◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(二)



◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(二)

 家々に新しい魂を授けに来てくれるのが歳神(年神=としがみ、正月様、歳徳神、若歳神、御歳神、大歳御祖神)(※注1)である。歳神(年神)とは穀霊神(農耕神)であり、また祖先の魂(祖先の霊)と考えられていた。

 「トシ」(※注2)というのは一年のことであり、苗作りから稲刈りまでの一周期も意味している。米を「トシ」ということもあった(「イネ」そのものの意味もあった)(※注3)。

 つまり「トシダマ(歳魂)」は、トシ=米を作るのに不可欠な霊力でもあったのである。歳神(年神)はその年の新しい「トシダマ(歳魂)」を持ってきてくれる神様であったのだ。その「トシダマ(歳魂)」の象徴が米であり、餅であり、握り飯であったと考えられている。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 歳神(年神)は「大歳神(大年神)」「御年神(御年神)」とされている。『古事記』では、「大歳神(大年神)」はスサノヲ命(須佐之男命・素盞鳴尊)の子神で母神はカムオオイチヒメ(神大市比売)とし、「御年神(御年神)」は「大歳神(大年神)」の子神で母神はカヨヒメ(香用比売)としている。

 しかし、この神は同一の神とも考えられ、穀物霊や稲魂を神格化した農耕神だあったようで、五穀豊穣の守護神であった。「年」は「稔」と同音で、稲が発芽し生育し穂を稔らせて一巡する期間が一つの「稔」とされ、これを一年としたという。

 『古事記』が「大歳神(大年神)」を、穀霊神であるウカノミタマ(宇加之御魂)神の兄弟神としているのもこのためである。

(※注2) 『万葉集』には、稲がよく実るの意味で「年=としは栄える」という表現がありますし、「年得(としう)」という言葉にも稲(穀物)がよく実って豊作であるという意味として用いられる。

 この「トシ」の神が「歳神」「年神」「歳徳神(としとくじん)」などと呼ばれる神で、元は歳月の神というより「稲の神」「豊作の神」、いわゆる「穀霊神」であった。

 他方、藤原兼輔の『後撰集』(平安時代)には「妻のみまかりての年の師走の晦の日、ふること言い侍りけるに、亡き人の共にし帰る年ならば、暮れ行く今日は嬉しからまし」とあるように、正月が御魂祭りの風習を持っていたことも窺わせる。

(※注3) 物みなすべて(万物万霊、森羅万象)に魂が宿っているというのが日本人の信仰の基本であった。そして「魂」という名の生命エネルギーは、時が経つと衰えてしまうと考えられていた。

 こうしたことから、日本人は一年の節目節目に祭りを行ってきたのである。祭りによって神の威力を更新し、人間の魂も新しくすることができると考えられていたからである。正月祭りもこうした意味により執り行われる年中行事であったのだ。

 また、歳神(年神)が山にいる期間は万物がひそかに忌み籠もる期間とされ、命の再生を待つ期間と考えられていた。そこでこの期間のことを、古代の日本人はフユ(冬)と呼ぶようになった(フユとは「御魂の殖(ふ)ゆ」の「殖(ふ)ゆ」であり、じっと辛抱して忌み籠もる間に、新たな生命が殖ゆる期間を意味した。そこで冬には、死にかけた太陽を復活させるための、様々な太陽祭祀が行われた。鎮魂祭も元来、この「御魂の殖(ふ)ゆ」の祭りであり、日神の御子である天皇の霊力の賦活をはかる儀礼であったのである)。

 冬至(冬至期こそが太古の正月であった。太陽の死と再生の時期)を過ぎると死にかけた太陽は徐々に復活する。すると山に帰っていた歳神(年神)が里に降りて来て、春(「ハル」は「ハレ」であり、木の芽が一斉に「張(は)る」季節であり、新たな生命が瑞々しく胎動し始める季節であったのです)が訪れると考えたのである。

 この歳神(年神)を迎えて、新年の豊作を願い、祖霊祭り(御魂祭り)を行うのが、正月の様々な祭りであったのだ。

スサノヲ (スサノオ)

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◆2012年 古事記編纂1300年記念

 「なにごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに なみだこぼるる」

  この言葉は、仏僧であった西行法師が伊勢神宮を参拝した際に詠んだとされる歌である。
自然崇拝を起源とする日本の神々は、目には見えない。

 しかし八百万の神々は、神話の時代から今日に至るまで、時代とともに変化しながらも、さまざまな思想や宗教と宗教などと習合しながら、常に日本人の心に生き続けてきた。

 2012年、現存する中では最古の歴史書「古事記(こじき・ふることぶみ)」が1300年を迎える。この「古事記」という書物には「国土の誕生について」「日本の神々について」「日本の歴史について」、「日本」と「日本人」のこの国のすべてのことが古代の人々の感性で語られている。

 また、日本全国の神社で祀られてる「アマテラス」「スサノヲ」「オオクヌシ」などの神々の物語である「天の岩屋戸開き」「八岐大蛇退治」「稲葉の素兎」などがいきいきと描かれているのだ。

 古代の人々が心に描いた世界観である「八百万の神々が今も生きる日の本の国の神々のものがたり」を知ることで、今一度「日本」と「日本人」のことを真剣に考えてみよう。いや、エンターテイメントとしても大変に面白い物語だ。この記念すべき年を機会に、ぜひ読んでみよう。

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2012年01月03日

◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(一)




◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(一)

 日本の年中行事の中で古来よりの祭りの色彩を最もよく残しているのが正月と盆である(日本人にとっては一年の大きな節目として冬至と夏至の二度あった)(※注1)。

 かつては数え年で、正月(※注2)になると日本人はみな一つ歳を取った。また、正月には万物万霊(森羅万象)の魂が新しく生まれ変わるとされた。

 それだけに正月の行事は種類も多く、心構えの上からも一年のうちで最も重視されてきたのである。(※注3)。 

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 「盆と正月が一緒にきたような」といわれるように、正月と盆はハレの行事の二つの代表になっていて、いつも対比してみられてきた。

 正月と盆とは不思議な対応と類似がみられる(年棚と精霊棚、門松と盆花とり、トンド焼きと迎え火・送り火、七日正月と七日盆など)。一年をきっちりと折半した形で、正月と盆とは半年を間において向かい合っているのである。

 盆が七月の十四日・十五日を中心にしているのに対して、正月も十四日・十五日は小正月とか望正月といっていろいろの重要な行事がここに集中してみられる。ちょうど半年を間にした満月の夜に盆も正月も盛んな行事があるのである。

 また正月朔日から大正月が始まるのに対して、盆のほうも七月一日を釜蓋朔日といって、地獄の釜の蓋が開いて、精霊たちがこの世に旅立ちをする日だといわれるし、この日に盆の路作りを始める地方もあり、盆も一日から始まるのである。

 ただこの二つを同質同性格のものとするにはなお問題が残る。正月は季節の転換の祭り、農耕予祝の祭り、さらに祖霊の祭りといった総合的な性格を持っているのに対して、盆は祖霊・精霊の祭りが中心で性格は正月に比べ単純である。

(※注2) 正月は元々、年の初めにあって歳神の来臨を仰ぎ、その年の五穀豊穣を祈る、地域ぐるみの祭りであった。このために歳神の依り代として門松を立て、また不浄なものの侵入を防ぐために注連縄を張る。

 さらに古風には、歳神を祀る年棚に御神酒や重ね餅を供えて灯明を点る。他方で、正月は祖先の霊が帰ってくる日でもあるので、この祖先の霊を迎えて祀る日とも考えられている。すなわち祖霊は年に二回、正月と盆に帰ってくるものとされていたのである。

 しかし盆の方が仏教と強く結び付いたのに対して、正月の方は神道と結び付いたが、その神道も中世以降死の穢れのない清らかな祭りを強調するようになっていったため、正月が持つ祖先祭り(祖霊祭り、御魂祭り)の性格は極めて希薄なものとなっていった(西日本で今も残っている墓参り的風習は、その名残のようである。

(※注3) 日本人の「祖先崇拝」の中で、古代から最も重視されているのが「御魂祭り(祖霊祭り)」、すなわち「ご先祖様の祭り」である。

 正月と七月の年二回、古くから収穫後の収納を完了した段階で祖霊を迎え、正月は米の、七月は麦の大規模な祭りを行っていた。

 仏教伝来後、日本に伝統的にあった七月の御魂祭りは、仏教の「ウラバンナ(盂蘭盆)」と一緒になって、今日の盆になる。 正月行事も本来は、鏡餅に象徴されるように穀霊の祭りであるとともに、祖霊に供物を供える祭りであったのである。

 また、春秋の彼岸も、本来は日本固有の祖霊祭りであった。日本人は、春秋二回の昼夜の長さが同じこの日、古くから御魂祭りを行っていた。

 この春秋の御魂祭りには、祖霊のいる「常世の国」から、子孫がいる「この世」へ、祖霊が訪れると考えられていたのである。 仏教が伝来後の日本人の他界観は、海上の彼方の「常世の国」から、やがて阿弥陀如来のおわす「西方浄土」へと変わって行く。

 このように日本人の古代聖俗観(宗教観、日本人の基層の世界観)とは、大自然とともに生き、その大自然に抱かれた魂の循環と再生のシステムへの素朴な信仰であることがわかる。

スサノヲ(スサノオ)

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◆2012年 古事記編纂1300年記念

 「なにごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに なみだこぼるる」

  この言葉は、仏僧であった西行法師が伊勢神宮を参拝した際に詠んだとされる歌である。
自然崇拝を起源とする日本の神々は、目には見えない。

 しかし八百万の神々は、神話の時代から今日に至るまで、時代とともに変化しながらも、さまざまな思想や宗教と宗教などと習合しながら、常に日本人の心に生き続けてきた。

 2012年、現存する中では最古の歴史書「古事記(こじき・ふることぶみ)」が1300年を迎える。この「古事記」という書物には「国土の誕生について」「日本の神々について」「日本の歴史について」、「日本」と「日本人」のこの国のすべてのことが古代の人々の感性で語られている。

 また、日本全国の神社で祀られてる「アマテラス」「スサノヲ」「オオクヌシ」などの神々の物語である「天の岩屋戸開き」「八岐大蛇退治」「稲葉の素兎」などがいきいきと描かれているのだ。

 古代の人々が心に描いた世界観である「八百万の神々が今も生きる日の本の国の神々のものがたり」を知ることで、今一度「日本」と「日本人」のことを真剣に考えてみよう。いや、エンターテイメントとしても大変に面白い物語だ。この記念すべき年を機会に、ぜひ読んでみよう。

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2012年01月03日

◆正月の起源と生命の循環と再生のシステム




◆正月の起源と生命の循環と再生のシステム

※正月の起源については(大自然に抱かれた、魂の循環と再生のシステム)

 太古の昔、古代の日本人(倭人)には倭人の時間観(暦)があったようで、その時間観(暦)は太陽と月が規定していたようである。では、その倭人の時間観(暦)とはどういうものであったのであろうか。

 それは、世界と人間が「死と再生」を繰り返す時間と考えていたようだ。時間とともに世界と人間は、死に再生するものだと考えていたと思われる。

 倭人にとっては、中国の文明文化を受け入れた古代以前の太古において、時間観(暦)は、天空にある太陽と月であったはず。この二つの天体・太陽と月が太古の時間を基本的に規定し、年と月の観念が出来上がったと思われる。

 年は太陽の周期で、その活動には二極の節目あった。すなわち最盛期と最弱期で、今で言う夏至と冬至の頃がそれにあたる。 

 そして冬至期こそが、太古の「正月」であったのかもしれない。正月とは一年の始まりである。始まるためには一度終わっていなければならない。すなわち死んでいなければならないわけである。

 事実、世界の神話や祭祀を見れば、冬至は太陽の死である。そして同時に新たな太陽の誕生の時でもあった(太陽祭祀や太陽復活祭などから)。

 もしかすると、太陽の死と再生のときが「正月」であったのかもしれない。それは太陽ばかりではなく、人間にとっても同じで、人間もこのとき死に、再び生まれ、蘇るのものと考えていたようだ。(夏至期の時にも、世界と人間は死と再生をくり返すと考えられていたようである) 

 月についても太陽のように、死と再生をくり返す。そして月の霊威の最盛期は満月の夜である。この夜、世界と人間は最大の生命エネルギー(生命力)を浴びる。これが「月見」だといわれている。

 このように太古の時間観(暦)は、月の「死と再生~満月~死と再生」というひと月のリズムと、太陽の「死と再生~最盛期~死と再生」という一年のリズムとから成り立っていたようだ。そしてそのそれぞれの節目が「祭り」であり、ハレの日と夜であった。

 この太古の時間観(暦)は、日本人の精神の深層(古層)にしっかりとあり、その後の中国文化(中国仏教も)の受容により春節(正月)などを取り入れ、古代国家による官製化がなされ、さらには欧米文化を受容してきたいま現在に至っても基本的には変わらなかったようである。

 新文化を表層において、あるいはより深く受け入れても精神の基底においては「日本(太古の日本人の精神)」があったのである。 

 すると、死と再生こそが「正月」(祭り、ハレの代表)の本義であったことになる。このときに生命を更新しなければ、世界と人間はケガレ(気涸れ)てしまうのである。

 よみがえり(黄泉返り)とは、文字どおり死んで再生することである。当然のことながら、本当に死んでしまったらよみがえれないので、象徴的に儀式的に死ぬことになる。

 太古の時間観(暦)と農耕文化が確立してくると、再生の中心は稲霊(魂)に移り、またこれと並行して祖霊崇拝を軸とした魂祭りの要素が大きくなる。

 時期的には、農作物の取り入れが終わり次の農作業が始まるまでの農閑期が、一年の中で集中的なハレの期間となる。こうして正月が年中行事の中でも揺るがぬ首座につくようになったようなのだ。

スサノヲ (スサノオ)

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◆2012年 古事記編纂1300年記念

 「なにごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに なみだこぼるる」

  この言葉は、仏僧であった西行法師が伊勢神宮を参拝した際に詠んだとされる歌である。
自然崇拝を起源とする日本の神々は、目には見えない。

 しかし八百万の神々は、神話の時代から今日に至るまで、時代とともに変化しながらも、さまざまな思想や宗教と宗教などと習合しながら、常に日本人の心に生き続けてきた。

 2012年、現存する中では最古の歴史書「古事記(こじき・ふることぶみ)」が1300年を迎える。この「古事記」という書物には「国土の誕生について」「日本の神々について」「日本の歴史について」、「日本」と「日本人」のこの国のすべてのことが古代の人々の感性で語られている。

 また、日本全国の神社で祀られてる「アマテラス」「スサノヲ」「オオクヌシ」などの神々の物語である「天の岩屋戸開き」「八岐大蛇退治」「稲葉の素兎」などがいきいきと描かれているのだ。

 古代の人々が心に描いた世界観である「八百万の神々が今も生きる日の本の国の神々のものがたり」を知ることで、今一度「日本」と「日本人」のことを真剣に考えてみよう。いや、エンターテイメントとしても大変に面白い物語だ。この記念すべき年を機会に、ぜひ読んでみよう。

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2012年01月02日

◆2012年  新年のメッセージ2



◆2012年  新年のメッセージ2

 日本は明治維新後の近代化、戦後の国際化、現代の高度情報化へと西洋的価値観(一神教的価値観)を吸収することに邁進する中(これも日本の文化的特性である寛容性の現れですが)、経済的には大国になりました。

 しかし、気付くと自らの拠りどころ、依って立つ場所、日本人としてのアイデンティティ、日本人の精神的故郷を見失ってしまいました。さも根無し草のようにただ彷徨(さまよ)うような、うわついた軽い存在になってしまったのです。

 海外の文化や伝統を学び受け入れることも必要で重要なことですが、まずは、自らの文化や伝統を理解し、自信を持つ必要があるのではないでしょうか(戦前のような屈折した・閉ざされた民族意識には大きな問題がありますが)。

 日本の伝統的文化には、海外に誇れる魅力(人々を魅了し心を惹きつけてやまない生き生きとした文化の魅力=文化力)が多く存在します。まずそのことに日本人自身が気付くことではないかと思います。
 
 元々日本人は古くから、自然の山川草木すべてに様々な神々を見る自然的宗教観を持っていました(神々しい何かの存在を感じとる「神道的感覚」ともいうべきもの)。

 日本人は、自然を人間と対立するものと考えるのではなく、素直に自然の恵みは神々の恵みであると考えたのです。この自然に生かされ神々に生かされ、自然と共に生き、神と共に生きてきたという感覚が、八百万の神々の世界(多神教の世界観)を生み出しました。

 つまり、日本人とっては、人間が住む世界と神々が棲む世界が共有・共存されている国であったのです。しかし、日本の近代化は、この感覚にズレを生じさせ、日本人の精神的故郷を見失わせてしまいました。

 自然は人間の支配のもとに征服・管理する対象(つまり人間と自然を対立するものとして捉える考え)とした西洋的一神教の価値観(アメリカに象徴されるようなキリスト教的文明観、後に近代科学へ)に限界が見えてきました。

 こうした考えは、人間の傲慢さを助長し、歪んだ人間至上主義に陥らせ、修復不可能と思われるほど深刻な環境破壊をもたらします。

 二十一世紀、国際社会や地球環境が危機的状況にある世界にとって、このような自然のすべてに神を認め(山川草木すべてに自律的な神を見るような自然に対する繊細な感性、自然も生命もすべて循環し共生的に存在するというエコロジカルな考え方)、八百万の神を崇め調和していく(八百万の多様なものを包含しうる寛容な精神性)ような日本の伝統的精神文化(神道的精神、日本人のアイデンティティ)が、世界が諸問題を解決し対立から融合の時代に進む上で、大変重要な意味を持つことになるでしょう。

 つまり、私たちのこのような考え方が、民族・文化・宗教などの対立する人々の仲立ちをする役割を果たし得る可能性を持つのです(お互いがお互いを認め合い、一つの文化として尊重し合うような「共存」の意識・思想として)。

 日本仏教ではこれを、「山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくこくどしつかいじょうぶつ)」(大乗起信論の本覚思想)とか「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」(涅槃経)といった言葉で表します。自然界のすべてのものには仏性(神性、霊性)が宿り仏になるという意味です。

 これはアニミズムというより、ドイツの文豪・ゲーテや、オランダのユダヤ系哲学者・スピノザや、古代インド宗教哲学書「ウパニシャッド」に見られるような汎神論に近いのかも知れません(ゲーテは思想家でもあり、スピノザは純粋に哲学であり、ウパニシャッドも宗教というより哲学の部類に属すると考えられ、仏教もまた宗教というより哲学・思想として捉える向きもあります)。

 また、明治時代に日本に来て、西洋人として初めて出雲大社を昇殿参拝したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、いろいろな事象の中に神を見出す神道の神感覚を次のように表現しています。

 「この大気そのものの中に何かが在る・・・うっすらと霞む山並みや怪しく青い湖面に降りそそぐ明るく澄んだ光の中に、何か神々しいもの感じられる・・・これが神道の感覚というものだろうか」と。

 ハーンは、空気の中にも、太陽の光の中にも、水や海や山や森や風の中にも「神々しい何か」の存在を感じとるのが「神道の感覚」だといいます。この神道の感覚は、「豊葦原(とよあしはら)の瑞穂 (水穂・みずほ)の国」(豊かな葦の生い茂る水と稲穂に恵まれた国)という風土の中で時間をかけて育まれたものなのです。

 いま国際紛争や環境問題を解決するためには、新たな人間と人間、自然と人間、宇宙と人間との関係を再構築しなければならないのかもしれません。

 そのとき、根底(根本・源泉)になるもの(精神原理)は、かつて日本人が保持していた自然に対する謙虚さです(日本人が内在的に備えていた感性・神道的精神とは、多種多様な価値を認めるところにあります。自然は多種多様な生命が存在するから美しく豊かなのです)。

 この日本人の自然観(宗教観)は、世界の問題に対して大きなサジェスション(示唆)を与えてくれるかもしれません。

 今年2012年は、現存する最古の歴史書「古事記(こじき・ふることぶみ)」が編纂されて1300年を迎える記念すべき年です。

 「古事記」は、私たち日本人がどのような見方や考え方、感じ方をしてきたか、日本人の精神(自然観、死生観、歴史観)を理解する上で極めて貴重な書物です。日本人の心の源流を知ることで、これからの日本のあり方や進むべき道を考えてみることができるからです。

 最近は、わかりやすく解説した本やイラスト・マンガで表現した本も多く出版されています。一人でも多くの人に「古事記」の魅力を知っていただきたいと思います。

スサノヲ(スサノオ)

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2012年01月02日

◆2012年 新年のメッセージ1



◆メッセージ

 自然破壊や人口増大など地球規模の危機が心配されている今、国際的な金融危機など現代文明に限界を見えてきた今、また大震災や原発事故に見舞われ復興に取り組む今、新しい価値観のもと、世界のあり方や、社会のあり方、人のあり方が模索されています。

 また、この国に生きる日本人として、多くの人が「日本」とは何か?「日本人」とは何か?を真剣に考え始めたようです。

 しかし今までの多くの日本人は、「日本」「日本人」のことにそれほど関心がなく、新しいものや外からの情報に翻弄され刹那的に行動してきたようにも思えます。このような自らの拠り所をなくした根無し草のように漂う姿を見ていると、これからのこの国の行く末に不安を感じていました。

 今からでも遅くないと思います。自分たちのアイデンティティを見つめ直し、この日本列島の自然と風土の中で作り出してきた日本人と日本文化を知り自覚することが必要だと思います。

 確かに国際化が叫ばれ世界のことを知ることは重要ですが、本当の意味で国際人になるためにも、自分を自国をしっかり伝えることが出来ての国際化・国際人だと思います。

 特に日本の伝統文化・神話・古代史や地域に残る風習・祭り・行事など、古代人から現代人まで地下水脈のようにつながる精神世界を自覚することは重要です。日本の地域に残る風習や祭りは、豊かな森と水の日本列島という風土が醸し出した世界観(素朴な神々の世界観)の記憶だからです。

 私たちは普段、こういう事(古代からの世界観)を意識することなく生活しています。しかし、気付かなくとも、私たち日本人のものの見方や行動を規定している「何か」があります。それこそが日本人の心の源流であり、日本人の意識の底に眠った記憶です。

 この日本人の意識の底に眠った記憶とは、太古の昔から今日に至るまで、この豊かな森と水の日本列島という風土のなかで育成されてきた「日本人の精神的遺産」です。日本の神々の世界(八百万の神々)や風習・祭り・行事は、私たちの意識の底に眠った神々の記憶(古代の世界観)でもあり、大自然に宿る日本人の原風景でもあります。

 この文明の端境期に、新しい価値観が求められる時期に、このような古代から豊かな森と水に恵まれた日本列島とうまく折り合いをつけ、自然と柔らかい関係を結び、自然と共に生きることを選んだ日本人の知恵を学んでいきましょう。

 今年2012年は、現存する最古の歴史書「古事記(こじき・ふることぶみ)」が編纂されて1300年を迎える記念すべき年です。

 「古事記」は、私たち日本人がどのような見方や考え方、感じ方をしてきたか、日本人の精神(自然観、死生観、歴史観)を理解する上で極めて貴重な書物です。日本人の心の源流を知ることで、これからの日本のあり方や進むべき道を考えてみることができるからです。

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2012年01月01日

◆2012年 『古事記編纂1300年記念』



◆2012年 『古事記編纂1300年記念』

 今年2012年は、日本最古の歴史書である『古事記(こじき・ふるごとふみ)』が編纂されて1300年を迎えます。この古事記という書物には「国土の誕生について」「日本の神々について」「日本の歴史について」、「日本」と「日本人」のこの国のすべてのことが古代の人々の感性で語られています。

 また、日本全国の神社で祀られてる「アマテラス」「スサノヲ」「オオクヌシ」などの神々の物語である「天の岩屋戸開き」「八岐大蛇退治」「稲葉の素兎」などがいきいきと描かれています。

 『古事記』は、「日本」と「日本人」のことを考えるとき、一度は読んでほしい深い価値のある書物であり、それだけでなく大変に面白い書物です。この記念すべき年を機会に、ぜひ読んでみてください。

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2012年01月01日

◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(一)




◆正月祭りのフォークロア、日本の基層(一)

 日本の年中行事の中で古来よりの祭りの色彩を最もよく残しているのが正月と盆である(日本人にとっては一年の大きな節目として冬至と夏至の二度あった)(※注1)。

 かつては数え年で、正月(※注2)になると日本人はみな一つ歳を取った。また、正月には万物万霊(森羅万象)の魂が新しく生まれ変わるとされた。

 それだけに正月の行事は種類も多く、心構えの上からも一年のうちで最も重視されてきたのである。(※注3)。 

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1) 「盆と正月が一緒にきたような」といわれるように、正月と盆はハレの行事の二つの代表になっていて、いつも対比してみられてきた。

 正月と盆とは不思議な対応と類似がみられる(年棚と精霊棚、門松と盆花とり、トンド焼きと迎え火・送り火、七日正月と七日盆など)。一年をきっちりと折半した形で、正月と盆とは半年を間において向かい合っているのである。

 盆が七月の十四日・十五日を中心にしているのに対して、正月も十四日・十五日は小正月とか望正月といっていろいろの重要な行事がここに集中してみられる。ちょうど半年を間にした満月の夜に盆も正月も盛んな行事があるのである。

 また正月朔日から大正月が始まるのに対して、盆のほうも七月一日を釜蓋朔日といって、地獄の釜の蓋が開いて、精霊たちがこの世に旅立ちをする日だといわれるし、この日に盆の路作りを始める地方もあり、盆も一日から始まるのである。

 ただこの二つを同質同性格のものとするにはなお問題が残る。正月は季節の転換の祭り、農耕予祝の祭り、さらに祖霊の祭りといった総合的な性格を持っているのに対して、盆は祖霊・精霊の祭りが中心で性格は正月に比べ単純である。

(※注2) 正月は元々、年の初めにあって歳神の来臨を仰ぎ、その年の五穀豊穣を祈る、地域ぐるみの祭りであった。このために歳神の依り代として門松を立て、また不浄なものの侵入を防ぐために注連縄を張る。

 さらに古風には、歳神を祀る年棚に御神酒や重ね餅を供えて灯明を点る。他方で、正月は祖先の霊が帰ってくる日でもあるので、この祖先の霊を迎えて祀る日とも考えられている。すなわち祖霊は年に二回、正月と盆に帰ってくるものとされていたのである。

 しかし盆の方が仏教と強く結び付いたのに対して、正月の方は神道と結び付いたが、その神道も中世以降死の穢れのない清らかな祭りを強調するようになっていったため、正月が持つ祖先祭り(祖霊祭り、御魂祭り)の性格は極めて希薄なものとなっていった(西日本で今も残っている墓参り的風習は、その名残のようである。

(※注3) 日本人の「祖先崇拝」の中で、古代から最も重視されているのが「御魂祭り(祖霊祭り)」、すなわち「ご先祖様の祭り」である。

 正月と七月の年二回、古くから収穫後の収納を完了した段階で祖霊を迎え、正月は米の、七月は麦の大規模な祭りを行っていた。

 仏教伝来後、日本に伝統的にあった七月の御魂祭りは、仏教の「ウラバンナ(盂蘭盆)」と一緒になって、今日の盆になる。 正月行事も本来は、鏡餅に象徴されるように穀霊の祭りであるとともに、祖霊に供物を供える祭りであったのである。

 また、春秋の彼岸も、本来は日本固有の祖霊祭りであった。日本人は、春秋二回の昼夜の長さが同じこの日、古くから御魂祭りを行っていた。

 この春秋の御魂祭りには、祖霊のいる「常世の国」から、子孫がいる「この世」へ、祖霊が訪れると考えられていたのである。 仏教が伝来後の日本人の他界観は、海上の彼方の「常世の国」から、やがて阿弥陀如来のおわす「西方浄土」へと変わって行く。

 このように日本人の古代聖俗観(宗教観、日本人の基層の世界観)とは、大自然とともに生き、その大自然に抱かれた魂の循環と再生のシステムへの素朴な信仰であることがわかる。


スサノヲ(スサノオ)

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2012年01月01日

◆正月の起源と生命の循環と再生のシステム




◆正月の起源と生命の循環と再生のシステム

※正月の起源については(大自然に抱かれた、魂の循環と再生のシステム)

 太古の昔、古代の日本人(倭人)には倭人の時間観(暦)があったようで、その時間観(暦)は太陽と月が規定していたようである。では、その倭人の時間観(暦)とはどういうものであったのであろうか。

 それは、世界と人間が「死と再生」を繰り返す時間と考えていたようだ。時間とともに世界と人間は、死に再生するものだと考えていたと思われる。

 倭人にとっては、中国の文明文化を受け入れた古代以前の太古において、時間観(暦)は、天空にある太陽と月であったはず。この二つの天体・太陽と月が太古の時間を基本的に規定し、年と月の観念が出来上がったと思われる。

 年は太陽の周期で、その活動には二極の節目あった。すなわち最盛期と最弱期で、今で言う夏至と冬至の頃がそれにあたる。 

 そして冬至期こそが、太古の「正月」であったのかもしれない。正月とは一年の始まりである。始まるためには一度終わっていなければならない。すなわち死んでいなければならないわけである。

 事実、世界の神話や祭祀を見れば、冬至は太陽の死である。そして同時に新たな太陽の誕生の時でもあった(太陽祭祀や太陽復活祭などから)。

 もしかすると、太陽の死と再生のときが「正月」であったのかもしれない。それは太陽ばかりではなく、人間にとっても同じで、人間もこのとき死に、再び生まれ、蘇るのものと考えていたようだ。(夏至期の時にも、世界と人間は死と再生をくり返すと考えられていたようである) 

 月についても太陽のように、死と再生をくり返す。そして月の霊威の最盛期は満月の夜である。この夜、世界と人間は最大の生命エネルギー(生命力)を浴びる。これが「月見」だといわれている。

 このように太古の時間観(暦)は、月の「死と再生~満月~死と再生」というひと月のリズムと、太陽の「死と再生~最盛期~死と再生」という一年のリズムとから成り立っていたようだ。そしてそのそれぞれの節目が「祭り」であり、ハレの日と夜であった。

 この太古の時間観(暦)は、日本人の精神の深層(古層)にしっかりとあり、その後の中国文化(中国仏教も)の受容により春節(正月)などを取り入れ、古代国家による官製化がなされ、さらには欧米文化を受容してきたいま現在に至っても基本的には変わらなかったようである。

 新文化を表層において、あるいはより深く受け入れても精神の基底においては「日本(太古の日本人の精神)」があったのである。 

 すると、死と再生こそが「正月」(祭り、ハレの代表)の本義であったことになる。このときに生命を更新しなければ、世界と人間はケガレ(気涸れ)てしまうのである。

 よみがえり(黄泉返り)とは、文字どおり死んで再生することである。当然のことながら、本当に死んでしまったらよみがえれないので、象徴的に儀式的に死ぬことになる。

 太古の時間観(暦)と農耕文化が確立してくると、再生の中心は稲霊(魂)に移り、またこれと並行して祖霊崇拝を軸とした魂祭りの要素が大きくなる。

 時期的には、農作物の取り入れが終わり次の農作業が始まるまでの農閑期が、一年の中で集中的なハレの期間となる。こうして正月が年中行事の中でも揺るがぬ首座につくようになったようなのだ。


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2011年04月04日

春、団子の起源と稲作信仰、お花見と桜



◆◇◆団子と稲作信仰、三月は十六団子、四月は花見団子・・・

団子は昔から季節に応じて食べられてきました。三月は十六団子です。山の神さまが下りてきて田の神さまになる時にお供えするものです。四月は花見団子です。桜を見ながら、桜色の団子や三色団子などをいただきます。旧暦八月には月見団子。中秋の名月を見ながら、白い団子を頂きます。十一月にはまた十六団子。今度は田の神様が山に戻って山の神様になるのにお供えします。

◆◇◆団子の起源と語源

日本で団子が作られるようになったのは縄文時代頃であろうといわれています。初期の団子はいわゆる「粢(しとぎ)」で、米・粟(あわ)・稗(ひえ)・黍(きび)・豆・椚(くぬぎ)の実・楢(なら)の実などを粉にして水で練った、火を使わない団子でした。これは現在でも民間習俗で死者の枕元に供える枕団子がこの粢(しとぎ)の方式です。

「団子(だんご)」という言葉の語源については定かではありませんが、中国の「団子(トゥアンズ、餡入り団子、日本の団子に相当するものは中国では円子、なおちなみに団の旧字は團、円の旧字は圓)」から来たという説、「団」が丸いという意味なので形から来たという説、「団」は集めるという意味で粉を集めて作るからだという説、などなどがあるようです。

串団子は室町時代頃に発生したと言われていますが、最初の頃は五個刺すのが基本でしたが明和年間に四個のものがはやったとされます。現在では団子の大きさ次第で三個から五個の範囲で刺しているようです。

スサノヲ



◆神社の魅力を伝えるWeb活用支援事業(2012年「古事記編纂1300年紀」事業)
・Webサイト 神社専門ホームページ制作会社「神社Web制作工房」
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・リーフレット 神社専門ホームページ制作会社「神社Web制作工房」
http://jinjaweb.com/pdf/leaflet.pdf
・Blog 神社専門ホームページ制作会社「神社Web制作工房」
http://www.susanowo.com/
・関西テレビで放映されました。
http://www.ktv.co.jp/anchor/today/2011_01_28.html
・朝日新聞に掲載されました。
http://www.susanowo.com/archives/2126

  


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2011年03月25日

春、桜の語源と稲作信仰、花の日と花祭り



◆◇◆桜の語源と稲作信仰(サ神信仰)

桜の語源については、春には山の神さまは田の神さまになり、「御田植えの神」になるため里に降りてくるとされています。山の神さまは山から降りて来る途中、桜に宿るとされています。サクラの「サ」は山の神さま(稲の神さま)のことで、「クラ」は山の神さまが一時宿る神の座を意味していると言われています。そこから、桜を「サクラ」というようになったそうです。そうしたように、サクラは稲作信仰と強く結びついています。福島県では種をまく時期をサクラに頼っていたとか、福島県岩代町では稲代作りの目安になるサクラを「コエアゲサクラ」といい、福島県白河市では、「稲代しめ桜」というそうです。

◆◇◆花の日(春山入り)と稲作信仰(サ神信仰)

民間行事の花祭りは花の日とか春山入りとも呼ばれ、この日にお墓参りをしたり、山に登って花(石楠花が多い)を摘み、それを長い竹の先につけて庭に立て、これによって山の神さまを里に迎え入れるとします。一般に日本では山の神さまが春に里に下りてきて田の神さまとなり(さおり)、田の神さまが秋には山に帰って山の神さまとなる(さのぼり)という基盤的な信仰が存在しました。またこの時期は桜を愛でる花見の季節でもあります。

◆◇◆花祭り(灌仏会・釈尊降誕会・仏生会・浴仏会)

「花祭り」とはお釈迦様の誕生日のことです。仏教では灌仏会(かんぶつえ)又は釈尊降誕会(しゃくそんごうたんえ)と言い、釈迦誕生仏像に参拝客が甘茶を掛ける行事が行われます。仏生会・浴仏会などとも言います。灌仏会を花祭りと呼ぶのは一般には浄土宗・浄土真宗系のお寺が多いようですが、元々はこれは仏教の灌仏会と、民間行事の花祭りとが合体してできたのではないかとも言われます。だいたい明治後期頃、欧州留学僧たちが言い出した呼び名のようです。

この「花祭り」と呼ばれる灌仏会の場合、お堂を花で一杯に飾り花御堂として、その中に水盤に乗せた誕生仏を置き、竹の柄杓で甘茶あるいは五種の香水を掛けます。またお釈迦様のお母さんの麻耶夫人が白い象が体内に入る夢を見てお釈迦様を妊娠したという伝説にもとづき、境内に大きな白い象の作り物が置かれるところもあります。この象の上に花で飾った輿にのせた誕生仏を乗せパレードをするお寺もあります。

お茶を掛けるのは、生まれたばかりのお釈迦様に天から九竜が香湯を注いだという伝説にちなんだものと言われます。一部の地方ではこの甘茶をもらって帰り、それで墨をすって「千早振る卯月八日は吉日よ神さげ虫を成敗ぞする」という歌を書いてトイレや柱などに逆さまに貼り付けると蛇や害虫がやってこない、というおまじないがあります。

スサノヲ


◆神社の魅力を伝えるWeb活用支援事業(2012年「古事記編纂1300年紀」事業)
・Webサイト 神社専門ホームページ制作会社「神社Web制作工房」
http://www.jinjaweb.com/
・リーフレット 神社専門ホームページ制作会社「神社Web制作工房」
http://jinjaweb.com/pdf/leaflet.pdf
・Blog 神社専門ホームページ制作会社「神社Web制作工房」
http://www.susanowo.com/
・関西テレビで放映されました。
http://www.ktv.co.jp/anchor/today/2011_01_28.html
・朝日新聞に掲載されました。
http://www.susanowo.com/archives/2126
  


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2006年08月29日

◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(四)




◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(四)

 ※出羽弘明氏の『新羅神社考-「新羅神社」への旅』(三井寺のホームページで連載)を紹介する。出羽弘明氏は「新羅神社と新羅明神の謎」について、現地に出向き詳細に調べておられる。そこからは、古代、日本と新羅との深い関係が窺える。内容を要約抜粋し紹介する(新羅明神、白髭明神、比良明神、都怒我阿羅斯等、天日槍、伊奢沙別命、素盞嗚尊、白日神、新羅神など)。

◆◇◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎、越国(越後)と妙高山

 越後には、新潟県中頸城(くびき・久比岐)郡妙高村大字関山の新羅明神を祀る妙高山関山神社がある。関山神社の祭神は国常立尊(くにとこたちのみこと・関山大権現・聖観世音菩薩)・伊弉冉尊(いざなみのみこと・白山大権現・十一面観世音菩薩)・素盞嗚尊(すさのをのみこと・新羅大明神・騎獅文殊菩薩)の三神だ。

 祭神の神々は国土創成の神である。国常立尊と天孫族に連なる伊弉冉尊と素盞嗚尊(『出雲風土記』では須佐能烏命、『古事記』は速須佐之男命)だ。素盞嗚尊については須佐の男という意味で、須佐之男ともされる。元々この秘仏・聖観世音菩薩(関山大権現)が新羅仏であることから、国常立尊ではなく、素盞嗚尊の垂迹として祀られていたようである。

 神社の由緒は、元来は蝦夷といわれた人々(倭族)が妙高山を祀っていたが、その後新羅(加羅)系の人々が入植、越の地方は出雲地方や諏訪地方と同類氏族が統治していたようである。当地方には新羅系渡来人が居住しており、そのため、大国主命の父神とされるスサノヲ命(スサノオ命・須佐之男命・素盞嗚尊)が祀られるようになったのであろう。

 関山神社の地は、本来農業を守る水分(みくまり)神の聖地であったようで、それに渡来系の祖神である新羅系の神が合流したようである。妙高山山頂には八大竜王の棲む興善寺池がある。また、七月十七日に行なわれる神仏習合・密教・修験道が結びついた祭礼の火祭り(柱松の儀)は、妙高山の神に対する祭りのようだ。このように山と山上の池を神とする信仰は、日本神話の一つの類型である洪水神話、或いは山の峯への祖神降下神話や羽衣伝説もこれらと通ずるものがある。

 また、越の国(越後)は出雲神や諏訪神とのつながり深く、例えばスサノヲ命の八俣の大蛇退治の条の「高志の八俣の大蛇、年毎に来て喫(く)へり…」や、素盞嗚尊の子(或いは五代の孫とも六代の孫ともいう)の大国主命は、糸魚川の沼河比売(ぬなかわひめ)へ求婚に訪れますし、二人の間にできた子神が「国譲り神話」の建御名方命(たけみなかたのみこと)で信濃の諏訪神社の主神とされる。

 『出雲国風土記』の「国引き神話」には、「高志の都都の三埼を国の余りありや見れば国の余りあり…来縫える国は三穂の埼なり」とある。この地方は、古くより出雲との交易や出雲族の移住があり、朝鮮半島や中国大陸などとの交易により、早い時代から開拓が進んだ地方であったようだ。

 妙高山関山神社の由緒から、元来は蝦夷といわれた人々(倭族)が妙高山を祀っていたようだが、その後新羅(加羅)系の人々が入植したようである。越の地方は出雲地方や諏訪地方と同類氏族が統治していた、いわゆる部族の都市国家があったようだ。

 関山(関川沿)や奴奈川(姫川沿)にも、縄文時代遺構高地性の集落が存在し、硬玉や陶器の生産と流通が行なわれており、それが弥生時代中期頃から鉄を持った先進文化が伝来し、生産活動が発展していったと考えられている。新井市・板倉町・中郷村・妙高村の頸南地方に古代遺跡が集中していることからすると、古代はこの地帯が越後の中心地であり、国府もこの辺りにあった。


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2006年08月28日

◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(三)




◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(三)

 ※出羽弘明氏の『新羅神社考-「新羅神社」への旅』(三井寺のホームページで連載)を紹介する。出羽弘明氏は「新羅神社と新羅明神の謎」について、現地に出向き詳細に調べておられる。そこからは、古代、日本と新羅との深い関係が窺える。内容を要約抜粋し紹介する(新羅明神、白髭明神、比良明神、都怒我阿羅斯等、天日槍、伊奢沙別命、素盞嗚尊、白日神、新羅神など)。

◆◇◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎、信濃・木曽・遠州

 長野県下伊那郡阿智村の「安布知(あふち)神社」は、明治時代迄「新羅明神社」であり、祭神は現在も「新羅大明神(須佐之男命)」である。古代の信濃は「壬申の乱」の際には大海人皇子を支援し、美濃の後方部隊として兵力供給を行ったといわれており、いわゆる新羅系渡来人と関係の深い土地であったようだ。

 また、天武天皇(大海人皇子)と縁の深い安曇(あずみ)氏族や尾張氏族、及び古代渡来系の人々の居住地に係る地名が数多く散見する。これは縄文時代~弥生時代の渡来氏族と考えられ、諏訪神社の祭神・建御名方神(天照大御神に対する出雲の国譲りの際に、出雲から信濃の諏訪に逃亡したといわれる神)からも、出雲族が信濃に多く分布していたことを意味する。

 また、長野県下伊那郡駒場村之内曽山に白髯神社(白髭神社)があり、近江からの勧請といわれている。『村誌』によれば「抑々白髯大明神と申し奉るは本国近江の国浅井郡湖水のほとりに鎮座ましまされ候て、一号佐々木大神とも申し奉るに……此の地へ遷し奉候由来は、私の先祖佐々木左近太夫と申す者、元来近江の国細江の庄の住人にて……。元禄年中采女より十二代の孫吉左衛門の代にあたり、当所新羅大明神の神主林杢太夫と申す者申し候は白髯明神の祭礼、其外造営遷宮諸事、この方の指図を請け申す可き旨……。夫より後は、神祭りの砌り湯立等は必ず新羅明神の神主を頼み申候。」とある。

 白髯神社(白髭神社)も一説によればシラギの別称で、新羅神社であるといわれている。岐阜県多治見市にも新羅神社があり、静岡県浜松市にも新羅神社が存在する(※注1)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)実は、岐阜県には天武天皇(大海人皇子)と関係する神社がある。岐阜県加茂郡七宗町の御佩山(みはぎやま)の頂上近くに鎮座する、神渕(かんぶち)神社だ。この神渕神社は「弥栄(やえ)天王」とも呼ばれ、スサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)と、ヤマタノオロチを退治した十拳剣神霊が祀られている。

 神渕神社の社記によると、大海人皇子(のちの天武天皇)が、壬申の乱の時、吉野を出て岐阜県の不破の仮宮に進出した六七二年六月、自ら祀られたと記録されている。なぜ、天武天皇は、壬申の乱に臨んでスサノヲ命(須佐之男命・素盞嗚尊)と神剣(十拳剣神霊)を祀ったのか・・・? 

 天武天皇の心境(心に期する決意)を垣間見る思いである(素盞嗚尊の神剣と天武天皇の関わりについては、もう一つある。朱鳥元年・六八六年、天武天皇の病が重くなったので「戊寅に、天皇の病を卜うに、草薙剣(新羅の僧に盗まれそうになり、その後宮中に置かれていた)に祟れり。即日に、尾張国の熱田社に送り置く(『日本書紀』巻第二十九、天武天皇下、朱鳥元年六月戊寅条)」とある)。

 この地・尾張・美濃地域は、天火明命(ニギハヤヒ命?)の末裔・新羅系の尾張氏たちの勢力圏とされている。その後の天武-持統朝をみると、遣新羅使(遣唐使は約三十年間途絶)、白鳳文化の北朝仏教文化(中国北朝→高句麗→新羅)から、親新羅政権を窺うことが出来る。


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2006年08月27日

◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(二)




◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(二)

 ※出羽弘明氏の『新羅神社考-「新羅神社」への旅』(三井寺のホームページで連載)を紹介する。出羽弘明氏は「新羅神社と新羅明神の謎」について、現地に出向き詳細に調べておられる。そこからは、古代、日本と新羅との深い関係が窺える。内容を要約抜粋し紹介する(新羅明神、白髭明神、比良明神、都怒我阿羅斯等、天日槍、伊奢沙別命、素盞嗚尊、白日神、新羅神など)。

◆◇◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎、奥州(出羽・陸奥)
 山形県南部の置賜盆地(米沢盆地、最上川の上流)の東端には新羅神社(東置賜郡高畠町)が現存している。新羅神社のある山裾を東から西にかけてそれぞれ一メートル位の間隔で八幡神社・賀茂神社・新羅神社が存在しており、それらの神社については源氏三兄弟にかかわる伝説が伝わっている。

 またこの近くには、近江からの勧請といわれる白髭神社(白髭明神は大陸から帰化して近江を開墾した氏族の祭神であったものが猿田彦に転じたものとされている)がある。白髭神社も一説によればシラギの別称で、新羅神社であるといわれている。近江出身の人々がこの地に多く移住していたことが考えられそうだ。

 さらに福島県相馬地方の「相馬馬追」の武士団の中には新羅明神を信奉していた武士がいたようである。「相馬野馬追」の「神旗争奪戦」の神旗の中に「新羅大明神」なる宇多郷の一条氏に関係する神旗があり、『衆臣系譜』によれば、「鎮守が素戔鳴尊垂迹新羅大明神、三井寺鎮守」とあり、更に家紋は割菱(武田氏の紋)、幕紋は菅であるそうだ。すると、素戔鳴尊=新羅大明神なのであろうか?

 また、東置賜郡からさほど遠くない宮城県柴田郡には新羅三郎義光(※注1)や新羅系渡来人と縁の深い土地「新羅の郷」(宮城県柴田郡支倉)がある。「新羅の郷」の説明文(川崎町教育委員会)によると、前九年の役の折、源氏の武将・新羅三郎義光が新羅(朝鮮)の帰化人三十七人を率いて、この地に住まわせたそうだ。支倉(はせくら)に住んだ新羅人は優れた技術を持っていたので、砂鉄を精錬して武器と農具を作って戦役の用に供し、それ以来新羅の郷と呼ぶようになったとされている。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)源義光は、近江志賀の天台宗・園城寺(おんじょうじ、滋賀県大津市園城寺町)の鎮守の一つである新羅善神堂・新羅明神(しんらみょうじん)の社前で元服して、「新羅三郎義光」と名乗るようになる。源義光は、知謀に富み、弓馬の名手で、笙(しょう)に長じた武将とされ、各地に史跡・史料が残っている。

 右馬允、左衛門尉を経て左兵衛尉の任にあった寛治一年八月(一〇八七年)、いわゆる「後三年の役」における兄義家の苦戦を聞き、官職を辞してはせ参じた話は有名である。

 乱の平定後、義光は刑部丞に任ぜられ、常陸守・甲斐守を経て、刑部少輔にまで進みます。刑部丞に在任中、常陸国に下り、菊田庄を手に入れる。刑部丞の職にありながら常陸国に下った理由は定かではないが、当時の常陸国は豊かな国であったそうだ。

 「後三年の役」を通じて、その豊かさに目をつけた義光は、ここを地盤として、一族の勢力を扶植しようとしたと思われる。後、常陸国久慈郡佐竹郷を本拠として興る佐竹家、及び信濃国の武田・安田・小笠原等の諸家の祖となった。


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2006年08月23日

◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(一)




◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎(一)

 ※出羽弘明氏の『新羅神社考-「新羅神社」への旅』(三井寺のホームページで連載)を紹介する。出羽弘明氏は「新羅神社と新羅明神の謎」について、現地に出向き詳細に調べておられる。そこからは、古代、日本と新羅との深い関係が窺える。内容を要約抜粋し紹介する(新羅明神、白髭明神、比良明神、都怒我阿羅斯等、天日槍、伊奢沙別命、素盞嗚尊、白日神、新羅神など)。

◆◇◆新羅神社考、新羅神社と新羅明神の謎、奥州(陸奥国)

 東北地方には、八幡神社・賀茂神社・新羅神社が数多く存在しており、それらの神社については源氏三兄弟(源義家〔八幡太郎義家〕・源義綱〔賀茂次郎義綱〕・源義光〔新羅三郎義光〕)にかかわる伝説が伝わっている。東北地方の新羅神社・新羅明神は、源氏の将・新羅三郎義光の子孫が園城寺(三井寺)より勧請したものであることは確かなようで、新羅三郎義光や新羅系渡来人と縁の深い土地に鎮座している。

 青森県には「新羅神社」が三社と、合祠の「新羅神社」が一社ある。青森県八戸市の新羅神社(長者山新羅神社)は、神社発行の案内書によると、祭神は「素盞嗚尊」と「新羅三郎義光命」の二神、相殿に六神。御神体は、「素盞嗚尊」については「鏡」、「新羅三郎義光命」については木造の座像であるとのことである(明治二年の神社制度確立により社号を三社堂から「新羅神社」に改め、祭神も「八坂神社」「新羅神社」「金毘羅宮」となって三社合祀の社殿とされている。昭和五十一年「長者山新羅神社」と改称)。

 また、青森県三戸郡南部町(南部郷〔甲斐・山梨県〕より入部した南部氏の領した土地)の新羅神社も、祭神は「素盞嗚命」と「新羅三郎義光」の二神である。青森県上北郡十和田湖町大字奥入瀬字北向十(下川目)にも新羅神社がある。祭神は「新羅三郎義光」で、創建年代は不詳だが、南部光行本人か或いはその子孫に関係があることは間違いなさそうだ。さらに、青森県八戸市八幡字八幡丁三番地の「櫛引八幡宮」に「新羅神社」が合祀されている。


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2006年08月21日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十八)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十八)

◆◇◆京の夏を送る化野念仏寺の「千灯供養」

 八月二十三日、京都市右京区の化野念仏寺 (あだしのねんぶつじ)で、石仏や石塔に灯明を供えて無縁仏を供養する「千灯供養」が営まれる。夕暮れとともに、多くの参拝者が訪れ、石仏の周囲に蝋燭を供える。約八千体の石仏の蝋燭の炎がそよ吹く風に揺らめき、幻想的な光の海が浮かび上がる。暑さが止むとされる「処暑」に、幻想的な雰囲気が秋の気配を感じさせる。

 小倉山の麓にあたる嵯峨化野(さがあだしの)周辺は古くから庶民の風葬の地として知られており、化野念仏寺は空海が故人の霊を弔うために建立したとも伝えられている。石仏は「西院(さい)の河原」と呼ばれる一角にあり、「千灯供養」は明治時代、当時の当時の住職が散在していた石仏や石塔を集めて弔ったのが始まりとされている。

◆◇◆化野念仏寺 (あだしのねんぶつじ)の歴史

 化野念仏寺は、正式には、華西山東漸院(かせいざんとうぜんいん)と称する浄土宗の寺である。化野は、鳥野辺、蓮台野とともに古来より葬送の地として知られている。弘仁年間(八一〇~八二四)、空海が、小倉山寄りの地を金剛界、曼陀羅山よりの地を胎蔵界に見立てて千体の石仏を埋め、両界の中間を流れる曼陀羅川の河原に五智如来の石仏を立て、堂を建立し、五智如来寺と称したのが始まりといわれている。

 当初、真言宗の寺であったが、鎌倉時代初め、法然の常念仏道場となり浄土宗に改められ念仏寺と呼ばれるようになった。本堂は、正徳二年(一七一二)黒田如水の外孫寂道が再建したといわれている。堂内には本尊の阿弥陀如来座像を安置し、境内には十三重石塔を中心に八千基をこえる石仏石塔が立てられ、賽の河原を現出している。

 「千灯供養」は、地蔵盆の夕刻より営まれ、光と闇と石仏が織りなす光景は浄土具現の感があり、多くの参詣がある。石仏や石塔が、肩をよせ合う姿は空也上人の『地蔵和讃』に「これはこの世の事ならず 死出の山路のすそのなる さいの河原の物語・・・かのみどりごの所作として 河原の石をとり集め これにて回向(廻向)の塔を組む(積む) 一重組ん(積ん)では父の為二重組ん(積ん)では母の為・・・」とあるように、嬰児(みどりご)が一つ二つと石を積み上げた河原の有様を想わせる事から西院(さい)の河原というそうだ。

 あだし野は「化野」と記す。「あだし」とは、はかない、むなしいとの意で、また「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化る事や、極楽浄土に往生する願いなどを意図しているそうだ。この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後生土葬となり人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。


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2006年08月20日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十七)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十七)

◆◇◆素朴で雄大な「火のまつり」、夏の夜空を焦がす「松上げ」

 「松上げ」は、全国的に分布する柱松行事(精霊供養のための行事、全国にはさまざまな形態の柱松行事が残っている)の一形態とされ、京都市内では洛北の花背(はなせ)、広河原(ひろがわら)、久多(くた)、雲ケ畑(くもがはた)の山村(旧若狭街道沿いの集落)(※注1)に古くから伝わる愛宕信仰(※注2)の祭りで、秋の収穫を前に行われる、素朴で雄大な「火祭り」である。

 火の神様である愛宕山(愛宕明神)への献火行事として、火災予防、五穀豊穣、林業振興祈願のため、同時に先祖の供養と盆の精霊送りも兼ねて行われ、山里の人々総出の催しである(愛宕信仰による献火の行事だが、長い年月の間にいつしかお盆の送り火とも接合して、山里の夏の終りを飾る火祭りとなって定着した)。地区の松上げが終わると実りの秋ももうすぐだ。

 花背(はなせ)、広河原(ひろがわら)の松上げは、灯籠木場(とろぎば)と呼ばれる河原の一角に、小さな松明を竹にさして立てた多数(約千~千五百本)の地松を一斉に点火し、威勢のいい掛け声とともに、鉦や太鼓が鳴るなか、直立させた高さ約二十メートルの灯籠木場(とろぎ・檜丸太)の先端にとりつけた大笠めがけて下から上げ松といわれる火をつけた手松明を投げ上げ、点火させるという壮観な火の行事だ。

 松上げの後、「ヤッサコサイ」とヤッサ踊りや江州音頭を踊る。久多(くた)宮の町に伝わる松上げも同じく約十メートルの高さの柱松に手松明を投げ上げるもので、地元では「チャチャンコ」と称し、地蔵盆の行事として行われている。

 雲ケ畑(くもがはた・加茂川の源流で知られる林業の集落)の松上げは、雲ケ畑出谷町と中畑町の二か所で行われ、花背や広河原、久多の松上げの形態とは異なり、百束余の真割木の松明を文字の形をした三メートル四方の櫓にくくりつけ点火するもので、その文字は毎年異なり、点火されるまで秘密にされている。

 火にかかわる祭りは、霜月から小正月にかけて行われる「冬の祭り」(ドンド焼き・左義長など)と、盆行事にかけて行われる「夏の祭り」(迎え火・送り火など)に、大きく分けられる。火は古来から神聖なものとして取り扱われてきており、火に対する畏怖の念は信仰の対象として、さまざまな祭祀祭礼に大きな影響を与えてきた。

 京都に残る火祭りにおいても、さまざまな形のものが現在受け継がれている。「広河原松上げ」以外にも、例えば、「大文字五山送り火」「鞍馬火祭」「岩倉火祭」などがある。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)小浜を起点として、南川を遡上して名田庄村に入り、周山街道の京都府京北町、美山町を経て、愛宕神社へと「松上げの道」がみられる。さらにこの道は、奈良東大寺に至るといわれている。

(※注2)京都の「松上げ」は、火の守護神として知られる、京の都・洛西の愛宕神社信仰の祈りが込められた行事だ。火は人の生活に大切な関わりをもつとともに、火の恐ろしさも知っており、火の神秘は限りない人々の心に敬虔な祈りを生んだ。火の守護神・愛宕信仰は人々の生活の中で次第に広まる。


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2006年08月18日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十六)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十六)

◆◇◆地蔵盆(地蔵盆会)と地蔵(お地蔵さま)

 お盆は亡き人やご先祖さまの霊を弔う夏の行事だが、このお盆の行事で特に子どもたちが主人公となるお盆を「地蔵盆」という。地蔵盆の「地蔵(お地蔵さま)」(※注1)とは「地蔵菩薩」(※注2)のことである。「地蔵菩薩」は釈迦入減後、未来に弥勒菩薩(みろくぼさつ)が現れるまでの間、すべてのものに救いの手を差し伸べてくれる仏さまとされている(※注3)。

 特に子供の守り仏として篤い信仰を集め、そのため、八月の「地蔵(お地蔵さま)」の縁日(二十四日)前後には、お盆の行事と「地蔵(お地蔵さま)」のご縁日とが一緒になって、地蔵盆が行われる。

 「地蔵(お地蔵さま)」を祀るお堂や祠は提灯で飾り立てられ、子供たちが主役となって念仏を唱えての数珠回しや、福引、映画の上映や盆踊りなど、町ごとに趣向をこらした行事が行われ、子供も大人も共に夏の終わりを楽しむ。

 京都では、八月二十三、二十四日には各町内の辻々に祀られている石地蔵に子供達が集まり、灯明・供物を供えてお祭りする。また、京都では、六地蔵巡り(※注4)を行うのもこの日で、洛外六ヶ所にある地蔵尊の六地蔵詣でが行われ、各地蔵をめぐっては地蔵幡をもらい、これを戸口にさげて疫病を祓うという。京都化野念仏寺の千灯供養なども、この地蔵盆の行事の一環である。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)「地蔵」は「地」の菩薩のことである。ところが、平安末期、末法思想のなか「地蔵」はあの世とこの世の境界で衆生を助ける菩薩として信仰された。あの世とこの世の境界にある不安定な子どもの魂は、「子守地蔵」や「延命地蔵」によって守られると理解されていた。

 応仁の乱後、都の再生、条坊街路内部が宅地化され路地ごとに地蔵が置かれる。とくに長屋では共同便所・共同井戸であり、体力のない子どもの病死が後をたたなかったようだ。狭い長屋での共同生活では、子どもの死を契機に地蔵が共同での供養のために祀られた。

 次第に、亡き子の供養の地蔵が、子ども守護、町内安全の地蔵となっていく。地蔵祭祀は京都に始まり大阪に広まり、近畿全域にまで拡大した。今日、全国各地で地蔵盆の行事が行われるようになる。

(※注2)地蔵菩薩(お地蔵さま)は、過去に釈迦が入滅した後から、未来に弥勒菩薩が現れるまでの間の今世において、人間界のみならず地獄・餓鬼・修羅・畜生・天といった六道の全てに赴き、人々を救済する存在とされている。六道に合わせて六地蔵もよく道端などに作られている。

(※注3)幼くしてこの世を去った子供たちが賽の河原に集まって、父母を偲んで河原に石を積んでいると、地獄の鬼たちがやってきてそれを壊し迫害を加えるという。この哀れな子供たちを救ってくれたのが地蔵尊で、地蔵は子供たちの守り本尊とされている。

 このように、地蔵(お地蔵さま)は子供の守り神であり、賽の河原で苦しんでいる子供達の霊を慰めるものとして、『地蔵和讃』にも歌われている。「一重組んでは父のため 二重組んでは母のため(中略)その時能化の地蔵尊(中略)幼き者を御衣の もすその内にかき入れて 哀れみたまうぞ有難き」

(※注4)八月二十三、二十四日の両日、市内六つの地蔵を巡る行事が六地蔵巡りである。六つの地蔵がある場所は、山科、伏見、鳥羽、鞍馬口、桂、常盤と、いずれも洛中と洛外を結ぶ街道の出入り口にあたるところに祀られている。

 現在では貸切バスで巡るが、かつては朝早くから夜までかけて巡ったという。家内安全、厄病退散を祈り、各寺の赤、青、黄、緑、黒、白色のお札を授与してもらい、祇園祭りの厄除けちまきとともに、玄関先に吊るす。


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2006年08月17日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十五)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十五)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、「踊るあほうに見るあほう・・・阿波踊り」

 八月十二日午後六時、徳島市の八か所の演舞場で、阿波踊り(八月十二日~十五日)が行われる。演舞場では「連(れん)」と呼ばれる踊りグループが鉦(かね)や太鼓、三味線の「よしこの」囃子に合わせ、鳥追い笠にピンクのけだし姿の華麗な「女踊り」、ねじり鉢巻きに法被姿で機敏な動きの「男踊り」をにぎやかに繰り出し、市街地は「踊るあほう」と「見るあほう」の熱気に包まれ、踊り一色に染まる。

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、盛大な踊る祭り、徳島の「阿波踊り」

 八月十二日から十五日までのお盆の時期に、徳島市で行われる恒例の踊る祭りが「阿波踊り」である。徳島県には古くから盆踊りが伝承されており、江戸後期には、盆踊りをもとに集団を組んで三味線・太鼓・締太鼓・拍子木・尺八などで囃しながら仮装し、町中を踊り歩く組み踊りが流行していた。

 行進しながら踊り歩く自由な振りの踊りで、藍の取引で豊かになった商人たちが支えたといわれている。現在の連(れん)ごとに踊り進む阿波踊りの原型であったと考えられている。

 「阿波踊り」という名称は古いものではなく、大正末頃に観光協会が発足し、観光客誘致のため芸妓に踊らせた盆踊りを「阿波踊り」と名付けたという。「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそん」と囃し踊るところから、阿呆踊り・馬鹿踊りとも呼ばれていた。

 「阿波踊り」の起源の説明によれば、阿波藩のもとを築いた蜂須賀家政の徳島築城を祝って領民たちが浮かれ踊ったのが始まりだという。現在の「阿波踊り」は、大正期に流行った「よしこの節」の節で、「阿波の殿様蜂須賀公が、今に残せし盆踊り、踊り踊らば品良く踊れ、品の良い娘を嫁に取る、歌え歌えとせいたてられて、歌いかねますひよこ鳥」の歌詞などがうたわれている(※注1)。

 明治期は「はいや節」で歌われていたという。現在の踊りには踊り子連ごとに、大人数で手を上に足で調子をとる乱舞風行進型の「ぞめき踊り」と、三味線などを伴奏に少人数で流しながら踊る昔ながらの流しがあるが、特設の桟敷の前ではほとんど「ぞめき踊り」となっている。流しも芸妓たちによって十五日の朝踊られている。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)阿波踊りの起源は、諸説ある。一五八七年、蜂須賀家政が徳島城を築き、その落成祝いに町人たちに無礼講が許され、酒に酔った人々が踊りながら城内になだれこんだという説。一五七八年、大名三好家の武士団を束ねていた十河存保(そごう・まさやす)が、上方から招いて踊らせた「風流踊り」にはじまるという説。盆の時期に精霊を迎えて踊った精霊踊りがはじまりだという説などである。

 いずれにしてもその歴史は古く、四百年以上前から伝わっていたことは間違いないようだ。踊りは両手をあげてリズムをとり、三味線や太鼓、横笛や鉦(かね)などの鳴り物に合わせて、テンポよく足を運ぶ。基本的に踊り方は自由だが、地元の有名連による踊りは、ただの乱舞の域を超え、手の振り、足の運び方、腰の落とし方などに熟練の美を感じる。


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2006年08月15日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十四)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十四)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、お盆の踊り「盆踊り」

 今は娯楽行事(あるいは観光用の行事?)となっている盆踊りも元々は、盆に返ってきた祖先の霊を迎え慰め、そして返すための行事(※注1)であった。元来は縦に列をなして踊る形であったようだが、現在では輪になって踊る輪踊りも盛んである。輪踊りの場合は中心は精霊棚であったのであろう、現在は太鼓(あるいはスピーカー?)の載った櫓だったりする(※注2)。

 現在もお盆の時期は故郷への帰省ラッシュの時期である。現在よりも休みの少なかった時代、盆には奉公人が休みをとって実家に帰ることが出来る時期で、これを「藪入り」と称した。この時期はまた、他家に嫁いだ女性が実家に戻ることの出来る時期でもあり、自分と自分の家(先祖、ルーツ・・・)の繋がりを確認する時期だったようである。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)盆踊りを踊る目的については、大きく分けて四つあるとされている。

 (1)尊い神(祖霊神など)の来訪を意味する踊りで、若者などの扮した翁(おきな)・嫗(おうな)の二神が多くの随神とともに賑やかに家々を訪れ祝福して歩く、沖縄八重山地方のアンガマなどがある。沖縄県には豊年の祝意を込めた踊りもあり、沖縄以外にもこのような祝儀的性格の盆踊りがいくらか見られる。

 (2)先祖霊(祖先霊)を迎え慰めるための踊りで、これが最も多いようだ。主たる対象は、前年のお盆以降に亡くなった地域内の人々の霊である。

 (3)疫神などの祟り神を地域外へ鎮送することを目的とした踊りで、御霊信仰を背景にした盆踊りといえる。長野県下伊那地方の新野では、盆踊りの最後に新盆宅(初盆家)の切子灯篭を先頭にして皆で地域境まで練り行き、踊り神送りなどと称し、そこで切子灯篭を燃やし鉄砲の音させて後ろを振り返らずに戻ってきたという。

 (4)娯楽目的の盆踊りである。信仰的要素や娯楽性はすべての盆踊りにあるが、着飾って男女が賑やかに歌い踊る、娯楽性を強調したものだ。地域以外の多くの人びとも参加する各地の有名な盆踊り(阿波踊りなど)や、近年流行の町内会・自治会主催の夏祭りを兼ねた民謡踊り的な盆踊りは、もっぱら楽しみを目的としたものである。

(※注2)長年にわたって地域の行事の一つとして継承されてきた盆踊りでもっとも一般的なのは、先祖供養、特に前年の盆以降の新仏を地域の人びとが皆で供養しようとするものである。死後間もない霊はまだ浄化を遂げていないとされ、祟りやすいと考えられている。そのため、新盆宅(初盆家)の盆行事は地域の共同祭祀的色彩の濃いのが特徴だ。盆踊りもそうした共同供養の一つとして行われる。

 と同時に、踊るさまは、新仏が盆に戻ってきて踊る姿を表現しているとの解釈もあります。静岡県西部の遠州大念仏は多分に芸能化していますが、十数人ないしは数十人からなる念仏集団が独特の衣装で道行囃子を奏しつつ、次々に新盆宅(初盆家)を訪れ、その家の新仏を弔ったあと庭先で太鼓・笛などに合わせて激しく踊り、その合間に双盤の音が哀しく響く。

 この他にも、高知県土佐清水市の川口や大津のような、広場に精霊棚を設け、そこに新盆宅(初盆家)の位牌などを並べて踊り続ける所がある。また、鳥取県岩美町陸上では、墓踊りと称し、まず寺の境内で踊り始めてから墓地へむかい、新盆宅(初盆家)の墓を取り巻いて踊る所もある。

 このような新仏供養の盆踊りは、中世に流行した踊り念仏の系統をひく念仏踊りだが、次第に風流化し、踊りの場に彩色された大型の灯籠を並べたり、衣装に凝るようになっていった。同時に念仏を唱えるだけでなく、歌詞にも工夫を凝らすようになっていく。


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2006年08月13日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十三)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十三)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、「五山の送り火(大文字焼き)」

 八月十六日夜、京都の夏の風物詩であり夏の夜空を彩る「五山の送り火」が、京都市街を取り巻く山々で営まれる。多くの人が、ゆく夏を惜しみながら、送り火に手を合わせる。

 当日の午後八時、大文字山(東山如意ヶ嶽、左京区)の「大」に火が灯され、それに続き「妙法」「船形」「左大文字」「鳥居形」のかな文字や図形が、次々と山上に浮かび上がる。漆黒の夜に、オレンジ色の炎の文字がつくり出す幻想的な世界が京の街を包みむ。

 「五山の送り火(大文字焼き)」は、盆に迎えた先祖の霊を見送り、無病息災を祈る精霊送りの伝統行事である。大文字の火が消えると火床から「炭」を取り出そうと多くの人(無病息災を願う人)が殺到するそうだ。(※注1)。

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、「精霊流し」

 八月十五日夜、長崎市・佐世保市で、お盆の伝統行事「精霊流し」が営まれる。夕刻から、いくつもの灯篭を飾った精霊船、藁で供物を包んだこも船が運ばれ、慰霊の爆竹のけたたましい音とともに精霊船を担ぎ引く人の流れは夜遅くまで続くそうである。

 長崎の伝統行事「精霊流し」は、この一年亡くなった人の霊を精霊船に乗せて「西方浄土」に送る行事で、県内各地で繰り広げられる。長崎市中心部では、爆竹や鉦(かね)が鳴り響く中、大小さまざまな船が列をなす(※注2)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)十四・十五両日は、精霊は家に留まり、十六日の夜、家を去り、元いたところに帰ってゆく。伝統的な日本の霊魂観では、先祖の霊魂は、決してキリスト教で説くような天国や西方十万億土の浄土といった観念的な世界ではなく、われわれの住むこの世界の中に同居して(草場の影から見守って)いるのである。

 自分の子孫の無事安泰を確認(そのために、われわれは先祖の霊魂を接待する)したら、満足した先祖の霊魂を、今度は送り火を焚き、帰り道を照らして、霊を送り出す。これを「送り火」といい、「盆送り」、「送り盆」などとも呼ばれる。

 迎え火、送り火の習俗は江戸時代に盛んになったもので、川や海に灯籠を流す行為「精霊流し」や有名な京都に五山に炎で文字が浮かび上がる「大文字焼き」もまた、盆の送り火の一つである。

(※注2)「精霊流し」は、家々に迎えた先祖の霊を、祀り終わって送り流すお盆の行事である。七月(新暦・旧暦)十五日夕方か十六日に行われる所がほとんどで、稀に二十日過ぎに行う例もあるそうだ。

 先祖の霊(祖霊)は山や墓・寺などから迎えることが多く、川や海から迎える例は僅かである。これに対して送る場合は、迎えたときと同じく門口や墓などに火を焚くほかに、盆棚の材料に用いた竹・真菰(盆茣蓙)や供え団子や茄子・胡瓜で作った牛馬などを辻に納めたり、それらを川や海に流すことによって先祖の霊を送り返そうとしている例が多いようだ。

 迎えてきた時とは異なる場所に送ろうとしているのは、霊の迎え・送りを統一的に捉えようとする観点からは辻褄が合わないが、それは長年にわたる他界観の変遷や重層の結果による矛盾と考えられている。


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2006年08月12日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十二)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十二)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、柳田國男と民俗学

 柳田國男は、若い頃(三十五歳頃)『遠野物語』など民間に伝わる説話を集め始める。その後、貴族院議長徳川家達と衝突して書記官長を辞めて(四十五歳頃)朝日新聞記者となり日本各地を旅行、また国際連盟統治委員としてヨーロッパを旅行する。次いで雑誌『民族』を創刊し(五十歳頃)新しい民俗学の確立に努める。

 やがて「民間伝承の会」を設立(六十歳頃)、全国各地から集積された民俗資料をもとにライフワークともいうべき主著を刊行する『先祖の話』は終戦の年、連日の空襲警報の下で書かれた。戦後(七十歳頃)日本の神、家はどうなるのかを憂えて「民俗学研究所」を設立、民間伝承の会を日本民俗学会に改称して会長となる。晩年(八十歳頃)、「民俗学研究所」を解散した。

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、柳田國男と経歴

 柳田國男(1875~1962):日本民俗学の創始者であり、近代日本の生んだ思想家。明治8年7月31日に兵庫県東郡田原村辻川に生まれる。父、松岡操は儒学者、長兄、鼎は医者、三兄、井上通泰は歌人、次弟、静雄は言語学者、末弟、映丘は日本画家として名をなしている。

 1887年に上京して森鴎外宅に出入りするようになり、文学活動に入り『文学界』に詩作を発表するようになった。東京帝国大学法学科大学卒業後、農商務省農政課に入り、農政官僚の道を進み、当時の農政学に関心を抱くようになる。

 1901年(明治34年)柳田家の養嗣子となり、その後法政局参事官に転出した。その間土曜会、竜土会、イプセン会などで文学活動を続け、田山花袋、蒲原有明、小山内薫、島崎藤村らと知り合う。

 1908年九州旅行で宮崎県椎葉村を訪れ、山民の実態にふれたのが契機となり『後狩詞記』をまとめた。さらに1910年に『遠野物語』と『石神問答』を刊行し、日本民俗学の基礎を築いた。

 その後、柳田の関心は郷土研究に置かれ、新渡戸稲造、小田内通敏、松本蒸治らと郷土会を組織し、1913年(大正2年)に雑誌『郷土研究』の刊行を開始した。1919年貴族院書記官長の要職を辞したのち、朝日新聞社客員となり、全国各地への旅行を続け、沖縄へも初めて訪れ、民俗学飛躍のきっかけをつかんでいる。

 1922年、国際連盟委任統治委員に任命され、ジュネーブに赴いた。帰国後、『朝日新聞』論説員として活躍する一方、『海南小記』『明治大正史世相篇』『都市と農村』などを刊行した。昭和十年代にかけて民俗学の理論化を行い、『民間伝承論』(1934)、『郷土生活の研究法』(1935)、『国史と民俗学』(1936)を相次いでまとめている。

 とくに民族資料の収集、分類の基準を説くとともに、民俗のなかの心意伝承を重要な領域に設定したことが大きな特色となっている。1933年(昭和8年)九月以来、民俗学研究の中心となった木曜会を組織した。木曜会は第二次世界大戦後の民俗学研究所の活動に引き継がれた。木曜会において、その後成長した日本民俗学者たちの数多くが柳田の教えを受けた。

 1935年に還暦を迎えた柳田を祝う目的で日本民俗学講習会が開催され、これを契機として、民間伝承の会が発足し、機関誌『民間伝承』が刊行され、全国各地の研究者を組織化する第一歩が始まっている。柳田は全国各地を旅行した際、現地で同じ関心を持つ同学の士と会い民俗学の普及に努める一方、木曜会のメンバーを中心として全国的な民俗調査を実施し、山村、海村、離島の報告書をまとめている。

 柳田は第二次大戦中から、しだいに日本人の基層信仰に焦点を定め、1945年7月に『先祖の話』を完成し、なお『新国学談』三部作に取り組んだ。そこには祭りや氏神、祖先崇拝、民間信仰を研究することによって、民俗学を経世済民の学として位置付けようとする気概が読み取れる。

 戦後、柳田は民俗学を学校教育に取り入れることを積極的にすすめた。そして1949年(昭和24年)に民間伝承の会は日本民俗学会と改称され、柳田は初代会長となった。戦後の柳田の思想の軌跡は、日本民族と稲作の伝来のルーツをつなげる『海上の道』であり、死の一年前にその構想が大著となって公刊されている。

 柳田の半生は、終始一貫、民俗学を通して日本人の人生観、世界観を探ることにあり、その業績は日本研究の根幹に関わるものとして高く評価されている。(日本大百科全書より)


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2006年08月11日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十一)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十一)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、柳田國男の霊魂観『先祖の話』

 「柳田國男がライフワークともいうべき『先祖の話』(全集文庫版の第十三巻)を執筆したのは、空襲警報の下だった。昭和二十年の五月から敗戦後の秋にかけてである。柳田の慧眼は、いまの“靖国”をめぐる混乱を鋭く見抜いていたというほかない。

 『先祖の話』は、日本人の古来の霊魂観や死生観を取り上げこう書いていた。〝少なくとも国のために戦って死んだ若人だけは、何としてもこれを仏徒のいう無縁ぼとけの列に、疎外しておくわけには行くまいと思う〟。敗戦濃厚となった日々、国難に殉じた人びとのタママツリ(魂祭り)に強い危機感をおぼえたのだろう。

 柳田は、国ごとに常識の歴史というものがあるといい、民族の年久しい慣習を無視しては英霊は安んじて眠ることはできないと心底憂えていた。(中略)〝人は死ねば子や孫の供養や祀りを受けて祖霊に昇華し、故郷の村里をのぞむ山の高みに宿って、人や家や国の幸福や繁栄を見守る〟というのが柳田の霊魂観だった。」

産経新聞の産経抄(平成十四年八月十五日)より抜粋

 民俗学の父・柳田國男(※注1)は、敗戦が色濃くなった昭和二十年五月から、日本の行く末を心配し、『先祖の話』(※注2)を一気に書きあげたそうだ。先祖を大切にする心があれば、戦後の混乱にも、けっして日本人であることを失うことはないと考えたのであろう。

 そのためには先祖のことを書いておかなければならない、という思いが遺言のように込められているようだ(※注3)(柳田國男は、戦争に敗北後、日本がアメリカの統治下に入ることを予期して、日本人の自己認識(アイデンティティ)を保持しておこうと考えたためと言われいる)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)日本全国の古来の様々な風習、伝統といったものが日本の近代化によって急速に消滅していくなか、柳田國男が切り開いた民俗学は、忘れかけていた伝統的な日本のよさと祖先たちに代表される日本と日本人の本質(古きよき日本を理解する上で極めて重要かつ多様な問題)を甦らせる。

 柳田の半生は、終始一貫、民俗学を通して日本人の人生観、死生観、世界観、宇宙観を探ることにあった。彼の作品に綿々とそのことが綴られている。柳田の業績は日本研究(日本学)の根幹に関わるものとして高く評価されている。

(※注2)柳田國男は、第二次大戦中から、次第に日本人の基層信仰に焦点を定め、昭和二十年(一九四五年)七月に『先祖の話』を完成し、なお『新国学談』三部作に取り組んだ。そこには祭りや氏神、祖先崇拝、民間信仰を研究することによって、民俗学を経世済民の学として位置付けようとする気概が読み取れる。

(※注3)柳田國男は『先祖の話』のなかで、死者が「帰る山」について、次のように語っている。「無難に一生を経過した人々の行き処は、是よりももっと静かで清らかで、此世の常のざわめきから遠ざかり、且つ具體的にあのあたりと、大よそ望み見られるやうな場所でなければならなぬ」。

 かつて私たちは、確かな死後の世界を持っていた。それは、「人は死ぬと山へ帰る」と。だから「いずれは私もあのお山へ帰っていくのだ」と、村の周囲にひときわ秀でたそのお山を崇拝したのである。現代人は死のイメージを持たなくなったようだ。生も死も本来は自然のものだ。

 ところが生命科学の発達とともに、驚異的な勢いで人手に移ってしまった。生死は儀式であり祭りであり、他界への出入り口であったのである。その豊穣なイメージを喪失したところに、私たち現代人の“生の不安”の根源がある。


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2006年08月10日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、日本人の先祖観と先祖祭り

 民俗学を創始した柳田國男によると、「先祖の霊は神となって、子孫のために作物が豊かに稔ることを見守ってくれる。だから、作物が取れたら、それを供物として祖霊神に捧げ、共に喜びを分かち合って、これを共食し、新しい年の豊穣を祈る。豊穣を祈る祭りは、そのまま祖霊を祀ることになる」と説明している。

 日本人は、食物が新たに稔るのを祈る事と、神や祖霊を迎え、共に過ごすことを、一心同体として、年中行事や祭礼の中に伝承してきたといえる(※注1)。また、十五日は、太陰暦の時代はこの日は満月であり、昔は明るい夜を提供してくれる満月の夜に様々な祭りが催されていたのである。「お盆」もそうした古い祭りの一つなのかもしれない(※注2)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)民俗学からみた日本人の霊魂観によると、人が亡くなった後の魂は三つの段階を辿るそうだ。(1)死霊と荒魂、(2)祖霊と和魂、(3)神霊と氏神の三段階です。

 (1)死霊と荒魂については、人がなくなるとその魂は、不安定な「死霊」となって家の付近を彷徨うと信じられている。ときには生きている人に害を及ぼすこともあるので、荒々しい魂という意味の「荒魂」とも呼ばれる。そこで家の人は死霊を大切に鎮める必要があり、仏教の追善供養や神道の鎮魂・慰霊祭が営まれる。死霊(荒魂)は、大切にお祀りをしてもらうと、その家のわざわいを除き、幸福をもたらしてくれる除災招福の力がある、と信じられている。

 (2)祖霊と和魂については、ほとんどの家では、追善供養を仏教で行う。最初が「四十九日」で、七日ごとに七回お寺に法要をしてもらいう。次が百日目、あとは一周忌、三回忌、十三回忌という風に、すこしずつ間をあけながら仏壇やお墓で供養する。こうして死霊は、年月とともに荒々しさも消え、安定し、やがてなごやかな魂という意味の「和魂」とよばれる家の祖霊となって行く。祖霊は家族や子孫に災いや害を及ぼすこともなくなり、むしろ繁栄と恩恵をもたらすと考えられている。

 (3)神霊と氏神については、家族の供養をうけて三十年ほどすると、祖霊は血縁の家を離れ、個性を持たない霊になると信じられた。祖霊は、同じ地域(地縁)の神様の仲間に入るので「神霊」とよばれる。これが村の「氏神様」である。鎮守の森(神社)では、村中で氏神様をお祀する。氏神様は村全体の繁栄、とくに農業が中心だったころは豊作(五穀豊穣)をもたらし、人びとの安全や願いを叶える一方で、人々の生き方によって天災をもたらす、恐ろしい一面もある。ちなみに三十三回忌または五十回忌が終わると家の供養から完全に離れるので、「弔い切り(問い切り)」といって、戒名を書いた位牌を処分し、お墓を倒す「墓だおし」を行うところもあるそうだ。

(※注2)「日本では祭というたった一つの行事を透して(通して)でないと、国の固有の信仰の古い姿と、それが変遷して今ある状態にまで改まってきている実情は、窺い知ることができない。その理由は、諸君ならば定めて容易に認められるであろう。現在宗教といわるるいくつかの信仰組織、たとえば仏教や基督教と比べてみてもすぐに心づくが、我々の信仰には経典というものがない。(中略)説教者という者はなく、少なくとも平日すなわち祭でない日の伝道ということはなかった。以前は、専門の神職というものは存在せず、ましてや彼等の教団組織などはなかった。(中略)その教えはもっぱら行為と感覚とをもって伝達せらるべきもので、常の日・常の席ではこれを口にすることを憚られていた。すなわち年に何度かの祭に参加した者だけが、次々にその体験を新たにすべきものであった。温帯の国々においては、四季の循環ということが、まことに都合のよい記憶の支柱であった。」(『柳田國男全集十三』ちくま文庫「祭から祭礼へ」)。


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2006年08月09日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(九)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(九)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、日本人の宗教観、農耕民族と農耕儀礼

 日本は農耕民族であり、生業儀礼=農耕儀礼となっていることが多いようである。農耕儀礼は、世界的にみて復活と豊饒の儀礼だ。農業儀礼の特徴として、収穫サイクルがきっちり一年であることがあげられる。しかも、年中行事という形で、農業のサイクルに応じて多数の農耕儀礼が現在も残っている。

 日本の場合、さらに農耕儀礼=稲作儀礼になっていることが多いようである。小正月の予祝儀礼(※注1)のほか、田植え近くには田の神を祀る行事があり、水口祭(種まきのときの祭り)とか社日(春分・秋分の日に最も近い戊の日のこと、春秋の神の去来をみる日)、田の神降りなどが行われ、植物が育つ夏には病虫害を防ぐ虫送り、人形送りなどが行わる。

 ところが、七夕とお月見は、稲作儀礼ではなく、畑作儀礼出身の行事のようである。稲作の収穫儀礼は十月十日頃(旧暦)に行われる刈り上げ祭りというものらしいだが、お月見に比べ一般的ではない。

 中秋の名月は八月十五日(旧暦)の月のことで、芋名月と呼んで畑で取れた作物を月に供える。九月十三日(旧暦)の栗名月(豆名月)には栗などを供える。中秋の名月は里芋の収穫祭と考えられているが、九月十三日の十三夜(後の月、栗名月、豆名月、女名月とも呼ばれて、十三夜の風習は中国にはなく、日本独自のものである)も、民間では収穫祭が行われる。

 日本の農耕関連の儀礼は正月ではなく、旧暦一月十五日の小正月に集中している(※注2)。十五日(望月)は、太陰暦では満月であり、農耕儀礼が多く行われる。暦の上で正月と対になるのは、通常お盆と考えられていますが、大陸の方では中秋である。

 どちらも旧暦十五日、満月の日である。月見については、いまでは中秋のものだけが特別扱いされるだけだが、もともとは毎月の満月が特別な節目(祭り、ハレ)で、民衆にとっては、毎月の中心は満月の夜であったのだ。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)予祝儀礼とは、年初などに神霊に豊かな収穫を祈願するものである。小正月に、麦の畝を三列作って松を立てて拝む、麦団子を作って食べる麦正月などが知られていた。また九州など南方では里芋を神棚に供えるなど、里芋の儀礼が多く伝わっている。これら農業関連の予祝儀礼は、元旦ではなく、満月にあたる小正月に多いのが特徴である。

 この予祝儀礼に対応する、秋の収穫儀礼が盆と中秋の名月にあたる。いずれも満月の日だ。旧暦八月十五日は米の収穫にはちょっと早いようだが、もともと南方の里芋の収穫儀礼の日時である、という大林太良氏らの有名な説が最近は主流となってきている。

 稲作の収穫儀礼は十月十日前後の刈り上げ祭が祭りらしいのだが、畑作の収穫儀礼である中秋の名月や盆に比べるとどうも一般的ではない。

(※注2)朔正月を大正月というのに対して、十五日正月を小正月という。大正月が公式の儀礼ばった行事が多いのに対し、小正月は生活に即した行事が多いようだ。昔の生活は、月明かりを利用することが多かったからか、闇夜の大正月より望(もち=満月)の小正月の方が親しみやすく、大昔の生活の上ではむしろ小正月が年の境目であったのではないかともいわれている。

 小正月に行われる行事は、削りかけ、成らせ餅などのモノツクリ、農耕を模して豊作を予祝する庭田植え・成り木責め・鳥追いのほかに、小豆粥を食べ、夜はナマハゲなどの異様な訪問者があったり、これらはすべて農耕儀礼と見ることができ、年占や呪術的な要素が強いことが注目される。


スサノヲ(スサノオ)  

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2006年08月08日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(八)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(八)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、日本人の固有の宗教観や霊魂観

 お盆行事(祭り)には、三つの要素があるといわれている。それは、祖霊の祭り(死者祭祀)、豊穣の祭り(穀霊祭祀)、魂の祭り(生命の更新)である。この三つの要素が繋がりあるものとして受け取られてきたのが、日本人の古くからお盆行事(祭り)に対する考え方だったとされている(※注1)。

 そして、「盆と正月が、一緒に来る」と言う言葉がある様に、年の始まりには、二つあり、一つは稲作を中心としたもので、正月を年の初めとするものだ。歳神を迎えて米などの穀物を捧げ、新年の豊穣を祈る。

 もう一つは、蕎麦や芋などの畑作を中心としたもので、旧暦七月のお盆の時期が、二つ目の年の初めとも考えられてきたといわれている。このことから、昔は、一年を二つに分けて考えていたようなのである(※注2)。

 今でも、お盆には、喬麦や芋を供物として捧げる民俗が伝承されており、「お盆」を芋正月いう地方もある。この二つの豊穣を祈る祭りと、祖霊を迎え祀る祭りが、複合されたと考えられている。豊穣をもたらす神は、すなわち祖霊でもあったのだ。これらは、なぜ一体のものとして考えられたのであろうか。

 先祖の霊は神となって、子孫のために作物が豊かに稔ることを見守ってくれる。そのことから、作物が取れたら、それを供物として祖霊神に捧げ、共に喜びを分かち合って、これを共食し、新しい年の豊穣を祈るのである。豊穣を祈る祭りは、そのまま祖霊を祀ることになるというのが、一番分かりやすい解釈だ。

 食物が新たに稔るのを祈ることと、神や祖霊を迎え、共に過ごすことを、一つのことのように過ごしてきた昔の人々の姿が、年中の祭礼の中に生きてきたのである。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)農耕民族である我が国において、正月と盆の行事は、年中行事の中で最も重要なものである。正月は歳神(トシガミ)の来臨を願いこれを祀り、一年の農耕生活の安泰を祈ろうとすることと、一年の行事を儀礼化して演出し、類感呪術・模倣呪術によって豫期の収穫を得ようとする行事や、年穀や天候の吉凶を占う行事を中心にして、種々の呪術宗教的な要素を以て構成されている。歳神のトシは時間の区切りとしての「年」であるとともに年穀の稔(トシ)でもあり、したがってこの神は穀物霊、ことに稲霊から発達した農耕神と考えられている。

 すなわち、秋の収穫が終わって次の蒔種期に至る中間、そして太陽が南行の極みに達して北行に変わろうとする境目において、穀霊の活力の復活を祈り、豊かな稔りを期待する呪術的・祈祷的な儀礼行事として始まったものと考えられる。しかし他面、この神をミタマサマといい、供飯をミタマノメシと呼び、さらには「佛の年越」「先祖正月」として家の先祖の霊を迎え祀るところの多いのを見ると、この神は先祖霊としての性格も持っており、七月の盆行事に対する祖霊祭祀としての色彩も濃いようだ。

(※注2)お盆は、七月十五日(旧暦)を中心に営まれるが、太陽暦採用後は、八月十五日を中心にする地域が多く、元来は七月の行事であったのである。お正月の行事は、大晦日から元旦を中心に営まれるものと、十四日夜から十五日にかけてを中心にするものと、二つに分けることができる。前者は、一般に大正月、後者は小正月と呼ばれていた。お盆は、期日の上では小正月と対応している。即ち、ともに十五日を中心にし、元旦と釜蓋朔日、七日正月と七夕、御斎日(一月十六日と七月十六日)、二十日正月と裏盆というよう対応している。

 このことから、日本の年中行事は、かつては一年を単位とするのではなく、一年の前半の行事を後半の七月から十二月までもう一度繰り返す構成を取っていたのではないかと考えられている。また、六月と十二月の晦日(みそか)には、天下万民の罪や穢れを祓う大祓が恒例となっている。旧暦の六月の晦日には、夏越の祓というのもあるのだが、半年をはさんで類似の行事が多いのは、古くは、夏至と冬至で一年を二分する考え方(陰陽でいえば隠遁と陽遁)が強かったからだと思われる。


スサノヲ(スサノオ)  

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2006年08月07日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(七)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(七)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、「盆と正月」日本の二大年中行事

 「お盆」は、仏教固有の行事のように考えられがちだが、そうではない。ここに、日本人の不思議さと日本文化の独自性があるような気がする。「お盆」は、正月行事などと同じように、日本人の固有の宗教観や霊魂観と、仏教でいう供養の概念が融合して、「お盆」といわれる行事になったとされている。

 また供え物を載せる容器を、かつては盆といったことから、この行事を「盆」というようになったとの説もある(盂蘭盆会から来ているとの説もあるが…)。いずれにしても、「お盆」は、日本人にとっては、「お正月」と同様に、祖霊の御霊を祀る大切な行事として、受容してきたのだ(※注1)。

 日本人は昔から、お正月やお盆に、先祖の祖霊を迎えて供養するために、色々な慣習や儀礼を伝承してきた。そうした習慣や儀礼は、意識しなくとも今の私たちの生活に深く溶け込んでいる。なにげなく、習慣として受け入れられている「お盆」には、どのような意味があるのかを考えることは(考察することは)、日本と日本人の基層(日本学)を知る上で大変重要なことである。

 お盆の行事も、正月行事同様、地域ごとに違いがあるが、本来の意味においては大きな違いはない。「お盆」は、祖霊がお盆の期間だけ家に帰って家族共々過ごし、再びあの世に旅立つまでの間の行事(祭り)という意味においては…(※注2)。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)「盆と正月が一緒に来たよう」という言葉があるが、まさにお盆とお正月は日本の年中行事の双璧をなす重要行事である。お正月は、室内外に注連飾りをしたり神社に参拝するというように神道的色彩の濃い行事である。しかし、お盆は、仏壇に供え物したり墓や寺に参る仏教色の強い行事とみなされている。

 しかし、この二つの行事には以外に類似する点の多いことに気付かされる。そして、実は双子の様な行事なのだ。古い正月は一月十五日である。そしてお盆は半年後の七月十五日(旧暦)だ。ちょうど半年を隔てた日付で、行事の内容も大変類似したものが多く存在する。

 例えば、門松と盆花、正月の灯明と盆の迎え火、七日正月と七夕、どんど焼きと送り火、追儺・節分と茅(ち)の輪くぐり、盆のお供えとお節料理などなど…。このようにお盆とお正月の類似から、古代には、年の初めの行事が二回あったことが窺える。すなわち春の初めの満月の夜と秋の初めの満月の夜に、祖霊が来臨し、人々は、その年の豊穣を祈っていたと考えられるのだ。

 二度ある祖霊祭り・魂祭りの区別をするため、夏の場合、先祖に供える供物を載せる器の盆をそのまま行事の名として用いられたともいう。現在では盆は仏教色が強く、正月は神道色の強い行事となっているが、これは仏教が広がって以後のことで、昔はどちらも先祖の霊を祀る大切な行事であった。今でも正月に墓参りをする地方は多くある。

(※注2)大晦日(おおみそか・おおつごもり)には、近くの神社で年越しの大祓があり、毎年、茅の輪(ちのわ)くぐりをして半年間のお祓いをする。同じように、旧暦の六月の晦日には、「夏越の祓(なごしのはらえ)」というのもあるのだが、半年をはさんで類似の行事が多いのは、古くは、夏至と冬至で一年を二分する考え方(陰陽でいえば隠遁と陽遁)が強かったからだと思う。

 同じことが、正月についてもいえる。よく「盆と正月が一緒に来た」などといわれるように、お盆もお正月も「魂祭り(みたままつり)」がもともとの起源のようだ。お正月は、歳神を迎える行事だが、歳神とは、祖霊のことである。お年玉なども、もとは年魂(としだま)といって、歳神が新しい生命力(魂)を授けてくれることであった。

 冬至から次第に昼が長くなってくること、また再び春を迎えられることに生命力の復活を感じ、感謝する節目がお正月の時季なのである。お盆の迎え火・送り火に対して、お正月はどんど焼き(左義長)などの火祭りがある。


スサノヲ(スサノオ  

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2006年08月06日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(六)




◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(六)

◆◇◆「お盆」「盂蘭盆会(うらぼんえ)」、さまざまな「お盆」行事

 民間における「お盆」の行事として例えば、「盆竈(ぼんがま)」(※注1)「迎え火」「送り火」(※注2)「精霊棚」「盆棚」(※注3)「精霊流し」(※注4)「送り火」「盆踊り」(※注5)「盆堤灯」「盆花」なども、先祖の霊魂を迎え、供養する意味が含まれている。

 お盆の墓参りの花には、多くの場合、「ほおずき」の花が入っている。一説では、「ほおずき」は、その形が、堤灯に似ているところから、十三日に、先祖さまを迎える、「御魂(みたま)」の目印の「迎え火」や、その簡素化された形としての盆堤灯の意味があるとされている。お盆のお墓参りの花一輪にも、我々日本人が、受け継いできた伝統や習俗に無関係ではないようだ。

※参考Hints&Notes(注釈)☆彡:*::*~☆~*:.,。・°・:*:★,。・°☆・。・゜★・。・。☆.・:*:★,。・°☆

(※注1)盆竈:お盆に、野外に臨時の竈を築いて煮炊きをし、飲食をする行事である。辻飯、門飯、川原飯、餓鬼飯、お夏飯ともいう。期日はお盆の十四日が普通で、十五日にする所もある。外竈を設けて飲食することは、正月小屋や三月小屋と同じく別火生活の名残りとされ、神祭りの資格を得るために、家族から隔離し、清浄を保つための手段であったようだ。多くは女児中心の行事である。「盆のままごと」ともいい、今日の「ままごと」遊びは、外竈の印象を留めたものと考えられている。

(※注2)迎え火と送り火:盆の入り(十三日)の夕方、家の前で火を焚き祖先の霊を迎える。盆の十三日夕方が多いが、お盆の期間中毎日焚く所もある。これが迎え火だ。

 盆明け(十六日)の夕方に火を焚いて祖先の霊を帰す。お盆の終わりの感傷からか、迎え火よりも火にまつわる行事は豊富である。これが送り火だ。盆送り、送り盆などとも呼ばれる。

 迎え火、送り火の習俗は江戸時代に盛んになったもので、川や海に灯籠を流す行為や京都の大文字の送り火もまた、盆の送り火の一つである。

(※注3)精霊棚・盆棚 :お盆の精霊祭りのために家ごとに設けられる臨時の祭壇のことである。お盆の期間中に精霊棚(しょうりょうだな)、先祖棚、盆棚などという棚を作って、位牌、線香、花、野菜や果物、団子などを供える習俗があったそうだ。

 精霊棚は先祖を祀ったものだが、同時に餓鬼棚(がきだな)と呼ばれる無縁仏を供養する棚もあったそうだ。この棚は別に作るところもあり、また精霊棚の下に食べ物を供えるだけのところもあったそうである。

 今と違って昔は行き倒れて亡くなる人も多く、そういった祀られることのない身元のわからない霊魂は人々に様々な災難をもたらす物と畏れられていたことが、餓鬼棚で無縁仏を弔うという習俗を生んだのであろう。

 現在は精霊棚や餓鬼棚などを作るところは少なくなっているが、季節の野菜や果物、団子などを供える(ナスやキュウリで馬を作って供えるのもその変形)などの行為は、まだ多くの地方で行われているようだ。

(※注4)精霊流し:家々に迎えた先祖の霊を、祀り終って送り流すお盆の行事のことである。送り火の一種で、船にしつらえた灯籠を川や海へ流しこの灯籠と一緒に盆に迎えた先祖の霊を送り出す行為が原型だ。九州北部での精霊流しは有名である。場所によっては葦で大型の船を造って流すようなところもある。

 精霊流しの際には、盆の間に供えた野菜や果物などのお供え物も流す。これは祖先の元へ供物を贈るという面と、死の世界と関わった穢れ(けがれ)を水によって清めるという面をもったものであろう。水面に揺れる灯火には、先祖の霊を送り流そうとする気持ちが込められている。

(※注5)盆踊り:今は娯楽行事(あるいは観光用の行事?、阿波踊りなど)となっている盆踊りも元々は、盆に返ってきた祖先の霊を迎え慰め、そして返すための行事であった。

 元来は縦に列をなして踊る形であったようだが、現在では輪になって踊る輪踊りも盛んである。輪踊りの場合は中心は精霊棚であったのであろうが、現在は太鼓の載った櫓だったりする。

(※注)盆と藪入り:現在もお盆の時期は故郷への帰省ラッシュの時期である。現在よりも休みの少なかった時代、盆には奉公人が休みをとって実家に帰ることが出来る時期で、これを「藪入り」と称した。

 この時期はまた、他家に嫁いだ女性が実家に戻ることの出来る時期でもあり、自分と自分の家(先祖、ルーツ・・・)の繋がりを確認する時期だったようだ。


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