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2006年08月21日

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十八)

◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十八)


◆夏の行事、お盆・盂蘭盆会(うらぼんえ)(十八)

◆◇◆京の夏を送る化野念仏寺の「千灯供養」

 八月二十三日、京都市右京区の化野念仏寺 (あだしのねんぶつじ)で、石仏や石塔に灯明を供えて無縁仏を供養する「千灯供養」が営まれる。夕暮れとともに、多くの参拝者が訪れ、石仏の周囲に蝋燭を供える。約八千体の石仏の蝋燭の炎がそよ吹く風に揺らめき、幻想的な光の海が浮かび上がる。暑さが止むとされる「処暑」に、幻想的な雰囲気が秋の気配を感じさせる。

 小倉山の麓にあたる嵯峨化野(さがあだしの)周辺は古くから庶民の風葬の地として知られており、化野念仏寺は空海が故人の霊を弔うために建立したとも伝えられている。石仏は「西院(さい)の河原」と呼ばれる一角にあり、「千灯供養」は明治時代、当時の当時の住職が散在していた石仏や石塔を集めて弔ったのが始まりとされている。

◆◇◆化野念仏寺 (あだしのねんぶつじ)の歴史

 化野念仏寺は、正式には、華西山東漸院(かせいざんとうぜんいん)と称する浄土宗の寺である。化野は、鳥野辺、蓮台野とともに古来より葬送の地として知られている。弘仁年間(八一〇~八二四)、空海が、小倉山寄りの地を金剛界、曼陀羅山よりの地を胎蔵界に見立てて千体の石仏を埋め、両界の中間を流れる曼陀羅川の河原に五智如来の石仏を立て、堂を建立し、五智如来寺と称したのが始まりといわれている。

 当初、真言宗の寺であったが、鎌倉時代初め、法然の常念仏道場となり浄土宗に改められ念仏寺と呼ばれるようになった。本堂は、正徳二年(一七一二)黒田如水の外孫寂道が再建したといわれている。堂内には本尊の阿弥陀如来座像を安置し、境内には十三重石塔を中心に八千基をこえる石仏石塔が立てられ、賽の河原を現出している。

 「千灯供養」は、地蔵盆の夕刻より営まれ、光と闇と石仏が織りなす光景は浄土具現の感があり、多くの参詣がある。石仏や石塔が、肩をよせ合う姿は空也上人の『地蔵和讃』に「これはこの世の事ならず 死出の山路のすそのなる さいの河原の物語・・・かのみどりごの所作として 河原の石をとり集め これにて回向(廻向)の塔を組む(積む) 一重組ん(積ん)では父の為二重組ん(積ん)では母の為・・・」とあるように、嬰児(みどりご)が一つ二つと石を積み上げた河原の有様を想わせる事から西院(さい)の河原というそうだ。

 あだし野は「化野」と記す。「あだし」とは、はかない、むなしいとの意で、また「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化る事や、極楽浄土に往生する願いなどを意図しているそうだ。この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後生土葬となり人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。


スサノヲ(スサノオ)


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Posted by スサノヲ(スサノオ) at 22:28│Comments(0)スサノヲ(スサノオ)の日本学
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